将来を期待されながらも、若くしてその一生を終えた足利氏祖の足利義康(1127~1157)。その義康のあとを継いだのは、熱田大宮司藤原季範の娘を母とする三男の義兼(よしかね)です。
義兼の母は、源義朝の妻で頼朝の母である由良御前の妹です。ですから、義兼と頼朝は従兄弟の関係にあるのです。
足利義清
とは言え、父義康が死んだとき、義兼(1154?~1199)はまだ4歳くらいの幼少。庶兄の義清(????~1183)が足利氏の家政を切り盛りしたと考えられています。
この義清は、のちに信濃矢田荘を領したことから矢田判官と称します(上野国八幡荘矢田郷を領したからという説もあり)。
源平合戦といわれる治承・寿永の乱がおこると、義清は弟義長とともに木曽義仲の軍勢に従いました。
そして、1183年(寿永二年)10月、木曽義仲の命を受けて平家追討の大将軍として山陽道に兵を進めるも、備中水島の戦いで大敗を喫し、弟義長とともに戦死します。
足利氏の有力な一族として知られる仁木・細川両氏は義清の子孫です。細川氏は室町幕府管領家・守護大名として栄え、戦国時代も何とか持ちこたえて、江戸時代に熊本藩54万石の大名になったことは有名な話です。
ちなみに、足利義清・義長が戦死した備中水島の戦いより3年前の1180年(治承四年)5月、源頼政が以仁王を奉じて兵を挙げると、義兼の叔父足利義房は頼政軍に属して宇治川の戦いで戦死しています。
このように、義兼が頼朝のもとに馳せ参じる頃、足利氏は各々に大将を選び、打倒平家に立ち上がっていたのでした。
義兼と頼朝と北条姉妹
義兼が史料に初めて名を見せるのは、「吾妻鏡」治承四年(1180年)十二月十二日条です。義兼は、頼朝が鎌倉の新造御所に移る際の供奉武将の一人として記されています。
足利荘にあった嫡男の義兼は、源頼朝の招きに応じて鎌倉に参じ、新田義重の子の山名義範とともに、頼朝の側近として仕えていたのでした。
翌1181年(養和元年)、頼朝の命により北条時政の娘時子を妻に迎えます。
頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の娘で、義兼の母も季範の娘(正式には孫)です。頼朝と義兼は従兄弟の関係にあったのですが、ここにまた同じく北条時政の娘を妻とすることで相婿となり、頼朝との関係は一層密接となったのです。
この頃の頼朝は、平家を主とする京都から見れば、南関東を勢力下においた反乱軍の大将にしか過ぎません。さらに、頼朝の背後には奥州藤原氏や常陸佐竹氏、甲斐源氏武田氏、信濃・北陸に木曽義仲らの他の勢力の間にあって、まだ優位的な地位を築いてはいません。
ですから、かつて保元の乱(1156)で、武士の棟梁と仰がれた父義朝と対等の地位にいた足利義康(1127~1157)の嫡男である義兼が頼朝陣営に加わったことは、頼朝立場を優位なものにするとして大いに歓迎されたに違いありません。
源氏・足利・北条系図
義兼の活躍
1184年(元暦元年)5月、義兼は志水義高の残党討伐の将として甲斐に出陣します。ついで8月、源範頼軍に属して平家追討の戦いで武功を挙げました。
1185年(文治元年)8月には、その功によって上総介に任ぜられます。この任官は、朝廷から頼朝に与えられた知行六ヶ国の国司の任命の一環で、山名義範(伊豆守)や大内惟義(相模守)ら源氏の諸将と並んでの任官でした。1189年(文治五年)12月、頼朝が知行国を返上したため上総介を辞しています。
同じ1189年(文治五年)に、頼朝の奥州平定にも従軍し、藤原泰衡の後見熊野別当を捕らえるなどの武功を挙げています。さらに、その翌年大河兼任が出羽で叛旗を挙げた際には追討使として出陣し、大河兼任を宮城県栗原郡で破り武功をたてました。
このように義兼は、頼朝の鎌倉幕府創設に軍事面から支えていきました。
しかしこの結果、頼朝の地位が上昇したことによって、義兼の地位が相対的に低下することになります。足利氏が鎌倉殿=頼朝の御家人として幕府内部に位置づけられることになっていくのです。もし、鎌倉殿の御家人ではなく、頼朝の一族として振舞おうとするものならば、足利義兼は頼朝の粛清を受けたことでしょう。
頼朝の一族として振舞うのは、頼朝以外認められないのです。
1188年(文治四年)1月6日、義兼は頼朝に垸飯(おうばん)を献じ、馬五頭と自ら銀作りの刀を献上しています。この垸飯は「歳首の垸飯」と呼ばれるようになり、鎌倉幕府の有力御家人が新年に際して、将軍に対して忠誠の誓いを新たにし、馬や武器などを献上する武家の最重要行事として恒例化されます。
義兼が頼朝に垸飯を献じたことは、足利氏が御家人として頼朝に忠誠を誓う立場になったことを物語っているのです。
とはいえ、足利義兼は源氏一門たる門葉(源氏でも限られた者しかなれませんでした)として列せられ、一般武士の尊敬を集めていました。また、常に鎌倉に在住して幕府創設に献身的に奉仕し続けています。
1194年(建久五年)11月、義兼は妻時子と共に書写した一切経と両界曼荼羅を鶴岡八幡宮に寄進して将軍家の繁栄を祈願しています。
この供養には、頼朝・政子夫妻だけでなく、大内義信・山名義範以下の源氏門葉も列席しました。足利義兼が将軍頼朝に献身的に仕えていたことを示すエピソードです。
義兼は、将軍頼朝の従兄弟で、妻は頼朝の妻北条政子の妹ですから、必然的に頼朝や北条氏に対して献身的になったと考えられます。
北条義時の嫡男泰時(義兼の甥)が初めて頼朝に拝謁したときは、その陪席をつとめています。また、義兼の妻時子が病で倒れた時は、姉の政子がその病床を見舞うなど、姉妹の仲の良さも後世に伝わっています。足利氏と北条氏の家族的な付き合いを感じるエピソードです。
源氏・足利・北条系図
義兼の突然出家
1195年(建久六年)3月、頼朝が東大寺供養のために大和国へ上洛し、義兼はそれにしたがいます。ところが、供養が終わると義兼はその場で出家してしまいます。
実は、頼朝の大和への上洛までの間、1193年(建久四年)8月、謀反の疑いで源範頼が暗殺され、同年11月と翌五年8月に幕府創業に大きな役割を果たした甲斐源氏の安田義定・義資父子が相次いで誅殺される事件が起こっています。
頼朝は奥州平定後、源氏の御家人に対する統制を強め、自らの独裁権力の確立をはかっていきます。そして、その障害となる者の排除を露骨に進めるのです。範頼らはその犠牲となったわけです。
義兼は範頼らの悲劇を目の当たりにして、頼朝の従兄弟で、妻が頼朝の妹という立場そのものが危険となり得ることを感じたのかもしれません。
出家後は法名を鑁阿(ばんな)と称して足利に隠棲し、邸内に持仏堂を設け、念仏三昧の日々を送ったといわれています。この持仏堂は堀内御堂とよばれ、これが後に鑁阿寺(ばんなじ)に発展します。
義兼はまた、堀内御堂の僧に命じて内外典の説教を聞かせ、僧俗の教学にも力を入れました。これが足利学校の前身になります。
頼朝は1199年(建久10年)1月に53歳で死去し、義兼もこれを追うように同年3月8日に死去しました。享年46歳。
義兼を父とする足利一族
義兼には三男二女がいました。
長男義純(よしずみ)は、1204年(元久二年)に畠山重忠が滅ぼされた後、後家になった北条時政の娘を妻としたことから、畠山氏の旧領を与えられました。義純の子泰国より源姓畠山氏を称することになります。この畠山氏こそ室町幕府管領家で守護大名の畠山氏です。
義純はさらに新田義兼を娶って時兼をもうけます。この時兼は母方より上野国新田荘内の土地を譲られたことから、新田岩松氏の祖となりました。
次男義助は、1221年(承久三年)に勃発した承久の乱において幕府方として従軍し、宇治川の戦いで戦死しました。子の義胤は上野国桃井荘の地頭となったことから桃井を名乗るようになります。
桃井氏は室町幕府草創期に活躍しましたが、観応の擾乱では足利直義らの反尊氏勢力につきます。その結果、直義が没した後は次第に衰退していくことになります。
三男義氏は、義兼と北条時子の間に生まれたため、足利氏の家督を継ぎます。そして、鎌倉時代における足利氏の最盛期を作り出すことになります。
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