足利氏3代当主足利義氏は、3代執権北条泰時とは従兄弟であり、娘婿でもあり、その関係は強固なものだったようです。
この関係は後年、北条泰時の「関東棟梁」、足利義氏の「関東宿老」と称されるようになります。北条氏との強固な連携と、北関東に築いた強力な軍事基盤を背景として幕府中枢に重きを置いた義氏は、やがて政所別当に就任して、北条得宗家に次ぐ政治的地位を築いていくことになります。
執権泰時を支え続けた義氏
承久の乱の勝利によって、幕府は朝廷をおさえ、その影響力を西国まで伸ばしていくことになりました。執権として幕府権力の確立に尽力した義時は1224年(元仁元年)に没します。その翌年1225年(嘉禄元年)には、宿老大江広元が没し、しばらくして尼将軍北条政子も没しました。
後ろ盾を次々と失った執権泰時は幕政刷新の必要性を感じたようで、有力御家人と文士官僚からなる11名の評定衆を任命し、執権を補佐して幕政の評議に当たらせることにしました。
このとき足利義氏は評定衆に選ばれていませんが、幕閣の外にあって、義父であり従兄である泰時の治世に引き続き協力していたと考えられます。
また義氏は、尼将軍政子の十三回忌追善のため高野山金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来を安置して政子および実朝の遺骨を納めています。尼将軍政子は義氏の叔母で、将軍実朝は義氏の甥にあたりました。義氏が政子・実朝を心から慕っていたことを示すエピソードです。
1238年(嘉禎四年)3月には美作国大原保を大仏殿に寄進して政子・実朝の菩提回向の財源としました。
1240年(延応二年)、承久の乱で足利義氏とともに東海道軍の大将をつとめ、連署として泰時を助けてきた北条時房が没します。翌1241年(仁治二年)から1242年(仁治三年)にかけて、義氏は政所別当に就任し、評定衆らとともに政務を執り行っています。
このころには、義氏も年齢すでに50歳をこえ、官位も正四位下に進み、また小山朝政・三浦義村らの長老も死去していたことから、幕府の宿老として内外に重きをなしていたようです。
これより先、義氏の長子五郎長氏(吉良・今川氏祖)は、1228年(安貞二年)より幕府に出仕しました。嫡子泰氏も1236年(嘉禎二年)には出仕して、丹後守、ついで宮内少輔に任ぜられ、将軍頼経の側近として侍しています。
北条氏と足利氏を幕府内の役割という点から見てみると、北条氏が幕政の主導者として、足利氏は将軍を補佐する役割を果たすようになってきます。
泰氏は、北条泰時の孫娘で、4代執権経時・5代執権時頼の妹を妻とします。足利氏と北条氏の関係はますます緊密になっていくのです。
経時・時頼を支える義氏
1242年(仁治三年)、泰時は没し泰時の孫経時が執権となりました。泰時の嫡子時氏は出家して正義と称していた義氏は、宿老として、また北条氏の縁者として、若年の経時の補佐にあたったと考えられます。
1246年(嘉元四年)、経時が病死し、弟時頼があとをつぐと、不穏な動きがおこりますが鎮圧されます(宮騒動)。さらに時頼はこれを機に幕府創設以来の有力御家人三浦氏の排除をはかります。外戚安達氏が主導するかたちで三浦氏を挑発し、1247年(宝治元年)に三浦一族を滅ぼします。これを宝治合戦といいます。
義氏はこの時、事件に連座して滅亡した上総秀胤の遺領を恩賞として与えられました。
鎌倉足利氏の最盛期
この経時・時房の頃が鎌倉時代における足利氏の最盛期で、義氏は上総と三河の守護を兼ね、子の泰氏・長氏(吉良・今川氏祖)のほか、孫の太郎家氏(斯波氏祖)や一族の畠山泰国・国氏父子、義氏の娘婿世良田氏祖の新田頼氏も幕府に出仕しています。幕府内における足利氏の勢いをうかがい知ることができます。
また1250年(建長二年)、幕府は閑院内裏の造営費用を御家人たちに割り当てていますが、この時には義氏は単独で小御所を分担しているところから、その経済力も一般御家人よりはるかに抜きんでていたことがわかります。
足利泰氏出家
1251年(建長三年)12月2日、この足利氏の繁栄に影を落とす事件がおこります。義氏の嫡子泰氏が所領下総国埴生荘で、幕府に無断で出家してしまいます。泰氏36歳。埴生荘は上総秀胤の遺領で、宝治合戦の恩賞として義氏が賜り、泰氏に譲られていました。幕府は泰氏の自由出家(出家は幕府に届けて行わなければならない決まりがありました)を理由にこれを没収し、金沢流北条実時に与えました。この泰氏の自由出家には、摂家将軍藤原頼嗣の追放と宗尊親王の擁立に関係があると考えられています。
1251年(建長三年)12月2日、泰氏の出家によって足利氏謀叛の噂が鎌倉中に飛び交ったそうですが、12月26日には在京の前将軍頼経を再び将軍にしようとする一派が幕府転覆を画策したとして捕らえられました。
北条時頼は、これを機に摂家将軍頼嗣を廃し、北条政子・義時時代からの悲願である親王将軍の実現します。
泰氏は幕府に出仕して以来、前将軍藤原頼経に近侍してきました。1244年(寛元二年)に、4代執権北条経時によって藤原頼経が子の頼嗣に将軍職を譲ってからは、頼嗣の側近として侍しています。
このように、泰氏は幕府で将軍の傍にいたこと、妻が執権北条時頼の妹であることから、前将軍頼経を中心とする幕府転覆の動きや、それを機に北条氏が摂家将軍追放を企てようとする動きを察知し、政争に巻き込まれることを避けるために出家したと考えることもできます。
義氏死去
泰氏出家のあとも、義氏の幕府での位置は変わらなかったようです。泰氏の出家によって上総国埴生荘の所領は幕府によって没収されましたが、守護職は泰氏の子頼氏に相続されています。泰氏の出家によって、北条氏が足利氏に狙いを定めるということにはならなかったといえます。
1252年(建長四年)3月の宗尊親王の鎌倉下向に際しては、三河国守護として同国矢作宿・宮路中山の宿所の経営にあたっています。さらに鎌倉下向後の4月3日には、将軍宗尊親王に垸飯を献じています。この年は、執権時頼の妹を母とする嫡孫三郎利氏(のちに頼氏)も出仕するようになり、11月には将軍の新御所移転に、子の太郎家氏(斯波氏祖)や長氏(吉良・今川氏祖)の子満氏らと供奉しています。年老いた義氏にとって、一族挙げて幕府に出仕していることが幸せだったのかもしれません。
やがて2年後の1254年(建長六年)には病の床に臥し、11月21日に没しました。享年66歳。法名は正四位下左馬頭法楽寺殿正義。
鎌倉時代の足利氏歴代当主で「四位」に叙せられたのは義兼と義氏の2人のみです。北条氏も泰時・時頼・時房が正四位下、他は従四位ですから、足利氏の幕府での立ち位置をご理解いただけると思います。
義氏の生きた時代は北条氏の権力確立期でした。義氏は生涯を通じて北条氏との協調関係を保ち、つねに側面からその権力の確立に力を貸してきたといえます。和田氏や三浦氏、名越流北条氏などの有力御家人が得宗北条氏によって排除されていく中で、足利一族に繁栄をもたらしたし、幕府内にあって「関東宿老」の重きをなしたのです。
頼朝の義兄弟・相婿として源氏将軍家を支え続けた父義兼。北条氏と婚姻を重ねながら支え続け、幕府の宿老として重きをなした義氏。この足利氏2代の活躍によって、足利氏は滅亡することなく幕府で確固たる地位を築き、他の御家人から源氏の嫡流として認められるようになります。この財産は、後の尊氏の代へと受け継がれていくのです。
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