1155年(久寿二年)6月26日、源義国は長男新田義重の新田荘で死去しました。源義国のあと、足利荘を継いだのは足利義康で、足利氏祖となります。
足利氏祖義康
1127年(大治二年)、足利義康は父源義国と母源信濃守有房の娘との間に生まれました。新田義重は異母兄弟となります。同母弟に義房がいたようですが、詳しいことはわかっていません。
新田義重は上野国新田荘を領したことから新田氏を名乗りましたが、それは義重の母が藤原上野介敦基の娘だったことが関係していると言われています。
新田義重はだいたい上野国に在国していたようですが、足利義康は左衛門尉に任ぜられ父義国とともに鳥羽法皇の北面の武士として在京していました。
保元の乱での活躍
1156年(保元元年)、鳥羽法皇が鳥羽の安楽寿院で崩御されると、京都はにわかに騒々しくなり保元の乱が勃発します。義康30歳のときです。
義康は後白河法皇天皇側として、平清盛や源義朝とともに崇徳上皇の白河殿攻撃に参加しています。その数100騎。平清盛300騎・源義朝200騎に継ぐ規模で、後白河天皇側の主力軍を構成していました。
乱のあと、その功によって昇殿を許され、従五位下検非違使に叙任されています。
ところが、翌年の1157年(保元二年)5月29日、将来を期待されていた足利義康は若くして死去しました。享年31歳。
義康は、熱田神宮大宮司藤原季範の娘(季範が子範忠の娘を養女とした)を娶っています。源義朝も藤原季範の娘(由良御前、頼朝の母)を娶っていることから、義康と義朝は特に親密な関係にあり、保元の乱で行動を共にしたと考えられます。
このことが、のちに義朝の子頼朝と義康の子義兼を(頼朝と義兼は従兄弟)結びつけ、鎌倉幕府における足利氏の地位を高めることにつながるのです。
義康は、陸奥守にも任ぜられ陸奥判官とか蔵人判官とか呼ばれていたようです。
義康が平治の乱で生きていたら
歴史に「もし」はないのですが、もし義康が平治の乱(1160)まで生きていたらどうなったでしょうか?
義康は義朝と関係が深いことから、平治の乱が起これば義朝と共に平清盛を攻撃したことでしょう。そして、その結果は大きく変わったに違いありません。源氏が勝った可能性があります。
もし敗れたならば、足利氏滅亡となっていたかもしれません。そうなると、足利将軍家や室町幕府は存在しないことになり、日本の歴史は大きく変わります。
あるいは、平清盛に恨みを抱く義朝を諌めることによって、平治の乱は起こらなかったかもしれません。
そう考えると、義康の早すぎる死は源氏・義朝にとって痛手だったことは間違いありません。
しかし、義康が早く死んだからこそ、足利氏は平治の乱に直接的に巻き込まれることなく、何とかその命脈をつなぐことができたのです。
以上、源氏一門の中でもかなり優等生な足利氏の祖義康についてお話ししてきました。もし義康が長生きしていたら、足利氏はどうなっていたのでしょう。興味は絶えません。
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