女武将・板額御前

北条政子
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鎌倉時代は、数は多くありませんが女武者が活躍する時代で、男の武者顔負けの活躍をしています。

今回は、鎌倉武士が女武者をどう見ていたのかがわかる興味深いエピソードをご紹介しましょう。

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城氏の乱

1201年(建仁元年)、越後の豪族城氏が幕府に反旗を翻します。

城氏は平氏の一門で、平繁成が秋田城介に任じられたことから、城を姓としたと言われています。治承・寿永の乱では、平家方についたことから木曽義仲に攻撃され、源氏に降参しました。

棟梁の城長茂はのちの奥州征伐に従っていることから、頼朝には許されたと考えられます。しかし、その頼朝が死去すると、城氏は源氏に恩義を感じる必要はなくなりました。

この時代の恩義は、「一代限り」でよいとされていたので、「不義」でもなんでもありません。主君が死去すると、新しい主君に鞍替えしてもよいのです。江戸時代になると、そのような行為は「不義」となります。

この年の1月23日、城長茂が軍勢を率いて、京都守護の小山朝政の三条東洞院の宿所を囲み、小山方の郎従が応戦するも討たれるという事件が起こりました。朝政は留守で無事でした。長茂は、天皇から「関東を追討すべき」旨の宣旨を出させようとしましたが、ついに勅許は出ませんでした。

長茂は行方をくらまし、朝政や佐々木定綱ら関東の御家人たちが城氏の行方を捜しますが、見つけることができませんでした。

鎌倉にこの知らせが届いたのは2月3日であり、「鎌倉中騒動」という状態になったようです。

3月4日に京都から下った飛脚の情報によれば、2月22日に城長茂とその従者たちは大和の吉野で誅殺され、首は都大路で晒されたということでした。しかし、事件はこれで終わらなかった。越後で長茂の甥にあたる資盛が北国の武士たちを招いて反乱を起こしたのです。

幕府では北条時政・大江広元・三善善信などが集まり協議して、上野の磯部郷にいる佐々木盛綱(西念)を大将として、越後の御家人を率いて討伐軍を起こすことになり、御教書を佐々木氏に遣わします。

このように、越後での大規模な謀叛に際し、北条時政・大江広元などの宿老の談合で方針が決められ御教書が出されている通り、幕府は頼家を除いた宿老合議制で政治が行われるようになっていることがよくわかります。

一方の城氏方では、資盛が城郭を越後国の鳥坂に構え、押し寄せる兵に対して、矢と石を雨のように打ち出したので、佐々木盛綱の子盛季は傷を負い、郎党も討死したり負傷者を多数出します。

この合戦で活躍したのは、城長茂の妹で、資盛の叔母にあたる板額御前でした。

女武者

板額は弓矢の名手でした。「女の身たりといえども、百発百中の芸、ほとんど父兄を越ゆなり」、「人を挙げて奇特という」と『吾妻鏡』は記しています。

百発百中の腕を持つことを「奇特」(めったに見られないほど、すぐれた能力を持つ)として、御家人たちは板額御前を尊敬の眼差しで見ていたようです。

後世にありがちな「女のくせに」という見方が、鎌倉時代の武士の戦いにはなかったことを示しています。

この合戦の日、板額は童形のごとく髪を上げ、武具の腹巻をつけて矢倉の上に上がり、襲ってきた敵勢を射たのですが、その矢に当たって死なない者はなかったといいます。

 

 

攻め手の大将・佐々木盛綱の郎従は、資盛との戦いでも多くの討死・負傷者を出しますが、板額御前を前にさらに多くの討死を出してしまう損害を受けます。

そこで、攻め手の藤沢清親が板額御前の背後の山に迂回します。清親は高所から矢を放ち、それが板額の左右の股を射通したため、彼女は倒れ、生け捕りにされます。板額を失ったことで城氏は敗れました。

矢を射た藤沢清親に助けられた板額は、頼家の御所に参上しました。

理由は、頼家が「板額御前を見たい」と言ったからですが、板額の武勇を聞いていた御家人たちが続々と集まってきて、「市をなす」状態だったそうです。

畠山・結城・和田・三浦などの宿老も侍所に出仕していましたが、板額はその中央を通り、頼家の簾の前に進んみました。この間、いささかもへつらう様子はなく、勇壮な武者と比べても見劣りはしなかったそうです。ただし、先の合戦で負傷しているせいか、顔色が悪く、宮中の女性のようだったと『吾妻鏡』は伝えています。

板額が頼家と対面した翌日、板額を妻にしたいという御家人が、幕府の女房を通して頼家に願い出てきます。

その御家人は、阿佐利(浅利)与一義遠といいました。頼家が「無双の朝敵を望むのにはよほどの考えがあるのだろう」と問うと、義遠は「特別の理由などないのです。同心の契約をなし、壮力の男子を生み、朝廷を守り、武家を助けようと思うばかりです」と述べています。

これに対して頼家は、「この女は顔つきはよいが、心の武を思うと、愛する者などいようはずはない。義遠の所存は人間の好むところではない」と笑い、婚姻を許したので、義遠は板額を連れて甲斐に下がっていきました。その後、一男一女をもうけたといいます。

むすび

頼家は、「美人だが、男勝りな板額を誰も愛することはないだろう」とバカにしていますが、この時代の武士の中には、武勇に優れた女性を評価し、ぜひ自分の妻にしたいと思う者がいたようです。

また、婚姻のことを、義遠は「同心の契約」と表現していますが、鎌倉時代の婚姻は「男女が心を一つにする契約」で、現代の婚姻と非常に近いことがわかります。

板額御前のエピソードは、鎌倉武士の結婚観も伝えてくれるものなのです。

参考文献

田端泰子『北条政子』人文書院。

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