室町時代

足利尊氏の時代

足利直義の人柄~尊氏と正反対の弟

南北朝時代序盤は、北陸や東国で主に主導権が争われましたが、結果は北朝有利に進みます。 しかし、その北朝も新たな内紛と分裂を引き起こし、これが南北朝時代を複雑なものにしてしまいます。 その内紛と分裂を引き起こす北朝の2つの勢力の代表が足利...
南北朝時代

足利尊氏・直義兄弟の二頭政治体制を解説

「尊氏に道心を与え給うて、後世を助け給え。今生の果報を直義に与え給うて、直義の身を安穏に守り給え」 これは、1336年(建武三年)8月17日、光明天皇を即位させた2日後に、尊氏自らしたためて清水寺に奉納した願文です。 尊氏は、光明天皇の...
南北朝時代

南北朝時代・婆娑羅な武士たちとバサラなファッション

鎌倉末期から南北朝時代にかけて、様々な立場の武士が登場します。御家人・悪党・公家武者…などなど。 その中でも、当時の価値観を真っ向から否定する「変わり種」の武士が登場します。彼らは「婆娑羅(バサラ)」と呼ばれました。 室町幕府が禁止令を...
スポンサーリンク
足利尊氏の時代

南北朝序盤~北畠顕家・新田義貞・後醍醐の死と南朝の劣勢

今回は、北畠顕家や新田義貞の死を通して、南朝が劣勢に置かれていく様子を見ていきたいと思います。 その前に、後醍醐天皇の皇子たちの戦いから見ていきましょう。南北朝時代は、この皇子たちが全国に赴いたことで、戦乱は京都から全国に広がったのです。...
足利尊氏の時代

建武式目の制定とその背景を解説

後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器が渡されて、足利政権を正統化する形式的な手続きが完了したのは、1336年(建武三年・延元元年)11月2日のことでした。 その5日後に、尊氏によって『建武式目』17ヶ条が制定されます。 室...
足利尊氏の時代

尊氏の京都再攻略と南北朝時代の幕開け

1336年(建武三年・延元元年)5月25日、楠木正成は湊川の戦いに散りました。 後醍醐天皇は、生前に楠木正成が主張した作戦を採用します。 それは、後醍醐天皇は比叡山に退き、尊氏を入京させ、京都を包囲することで尊氏軍を殲滅するとい...
足利尊氏の時代

湊川の戦い・足利尊氏 vs 楠木正成・新田義貞

九州に落ちた足利尊氏は、多々良浜の戦いで勝利をおさめたことにより、再び京都を目指すことになります。 九州の多々良浜(福岡県福岡市)で尊氏が勝利する直前の2月29日、京都では後醍醐天皇により改元が行われて延元元年となりました...
足利尊氏の時代

多々良浜の戦い

京都・兵庫で後醍醐方に敗れた足利尊氏は、持明院統の担ぎ出し裏工作や一種の徳政令を出して味方の兵を募るなど、次の一手を打ちながら九州へ退いていきます。 尊氏九州上陸 1336年(建武三年)2月29日、尊氏軍が筑前芦屋ノ津(福岡県...
スポンサーリンク