建武の新政

建武の新政

北畠顕家の諫奏に見る後醍醐天皇の失政

1336年(建武三年・延元元年)5月、建武政権は瓦解しました。 後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡につながる元弘の乱の混乱を収束出来なかったばかりか、急進的な改革でさらに混乱を誘発しました。 長きにわたる戦乱と飢饉によって、人々は疲弊しきってい...
足利尊氏の時代

尊氏の京都再攻略と南北朝時代の幕開け

1336年(建武三年・延元元年)5月25日、楠木正成は湊川の戦いに散りました。 後醍醐天皇は、生前に楠木正成が主張した作戦を採用します。 それは、後醍醐天皇は比叡山に退き、尊氏を入京させ、京都を包囲することで尊氏軍を殲滅するとい...
足利尊氏の時代

湊川の戦い・足利尊氏 vs 楠木正成・新田義貞

九州に落ちた足利尊氏は、多々良浜の戦いで勝利をおさめたことにより、再び京都を目指すことになります。 九州の多々良浜(福岡県福岡市)で尊氏が勝利する直前の2月29日、京都では後醍醐天皇により改元が行われて延元元年となりました...
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足利尊氏の時代

多々良浜の戦い

京都・兵庫で後醍醐方に敗れた足利尊氏は、持明院統の担ぎ出し裏工作や一種の徳政令を出して味方の兵を募るなど、次の一手を打ちながら九州へ退いていきます。 尊氏九州上陸 1336年(建武三年)2月29日、尊氏軍が筑前芦屋ノ津(福岡県...
足利尊氏の時代

尊氏の建武政権離反・尊氏対義貞の最初の激突~箱根竹之下の戦い

得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が起こした「中先代の乱」とよばれる大規模な反乱は、京都から足利尊氏率いる軍勢が下向したことで鎮圧されました。 8月2日に尊氏は京都を出発していますが、喜んで尊氏軍に従った人は数知れずという状況だったよ...
建武の新政

建武政権の崩壊~二条河原落書

建武の新政は、その急激な改革によって武士を中心に多くの人々を混乱に陥れました。改革の副作用というべきものです。 後醍醐天皇が行おうとした改革は「悪い」とは言えないものも多くあります。「利権構造にメスを入れよう」とする点は評価されるべきもの...
建武の新政

後醍醐天皇の内裏造営・貨幣鋳造計画

後醍醐天皇は、鎌倉幕府に変わって天皇の時代が到来したことを天下に知らしめるために、「元弘」から「建武」に改元を行いました。 いわく付きの元号だった「建武」の由来 この改元とならんで、天皇の時代を天下に知らしめる趣旨で起こされた事業があり...
建武の新政

建武の新政・後醍醐天皇の主な政策

因幡国(鳥取県西部)船上山(せんじょうさん)を下山した後醍醐天皇は、途中で赤松則村や楠木正成の出迎えを受けながら、6月4日に京都へ帰還しました。 光厳天皇は皇位を廃され、光厳が立てた皇太子である康仁やすひと親王も廃されました。 そして、...
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