建武の新政

建武の新政

中先代の乱~足利尊氏・直義兄弟と北条氏残党の鎌倉をめぐる戦い

1335年(建武二年)6月、建武政権に大きな衝撃を与える陰謀が明るみになります。 それは、持明院統の後伏見法皇を奉じて、後醍醐天皇を倒すというものでした。 その陰謀は、全国各地で勃発する北条氏残党の反乱と深く結びついたので、さらに親政政...
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立ち上がる北条氏残党~建武時代の地方の反乱

1333年(元弘三年)5月に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が帰京すると天皇による親政(建武の新政)が始まります。 この親政は、1336年(建武三年)10月に終焉しますが、その間平和だったわけではありません。実際、1335年(建武二年)8月に足...
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護良親王の没落~尊氏暗殺未遂から鎌倉幽閉まで

「鎮守府将軍」足利尊氏が旧幕府の御家人たちを中心に人気を高める一方で、尊氏を敵視する「征夷大将軍」護良親王の人気は衰えていきます。さらには、父後醍醐天皇からも疎外されるようになりました。 幕府滅亡直後の高氏と護良の確執 鎮守府将軍...
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いわく付きの元号だった「建武」の由来

「平成」から「令和」へ。新しい時代の到来を国民全員でお祝いした感のある今回の改元。 「昭和」から「平成」への改元は、昭和天皇の崩御をもって行われましたので、哀しみいっぱいでしたが・・・。 改元をお祝いさせていただいた上皇様には本当に感謝...
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北畠親房・顕家父子と護良親王の打倒足利計画

鎌倉幕府が滅亡してまだ2ヶ月くらいの話をしています。 六波羅探題を滅ぼした足利尊氏はそのまま京都に駐留し、嫡男千寿王(のちの義詮)を鎌倉に置いて、京都だけでなく関東でも足場を固めていきます。 しかし、その足利尊氏をけん制する強敵がもう1...
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後醍醐の国司制度改革と報われない御家人たち

前回 1333年(元弘三年)6月に始まった後醍醐天皇の親政は、六波羅探題の後継であるかのように京都での勢力を拡大し、諸国の武士たちの不満の代弁者となった足利高氏の軍事的圧力によって、わずか2ヶ月で軌道修正を迫られました。...
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鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の後ろに足利尊氏

六波羅探題を滅ぼしたのは足利尊氏、鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞と言われています。 尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのち、そのまま京都に駐留して勢力基盤を確立していきます。 当然、鎌倉に駐留した義貞は鎌倉で勢力基盤を確立しているものと思ったら...
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諸国平均安堵法と雑訴決断所~足利高氏の軍事的圧力

前回 1333年(元弘三年)6月5日、伯耆国から帰京した後醍醐天皇はさっそく親政を始めましたが、その政策は社会の混乱を招きます。 また、高氏と護良親王の対立が激しくなるなか、後醍醐天皇は高氏を政権から遠ざけます。人々の間...
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