鎌倉時代

北条時政の時代

2代将軍源頼家と御家人・文士との確執

1199年(正治元年)1月13日、鎌倉幕府初代将軍源頼朝はこの世を去りました。享年53歳。 頼朝は平家滅亡後独裁者として君臨し、意に従わない源家一門を次々と粛清していくなど、その凶暴性を増していました。死因については、一般的には落馬による...
源頼朝

源頼朝の生涯・平家打倒と鎌倉幕府創設、そして晩年の誤算

当サイトは、執権北条氏と御家人足利氏の立場から鎌倉幕府に光を当て、鎌倉幕府が室町幕府にどのように引き継がれていったのかを考えてみようと企んでいるサイトです。実は、鎌倉幕府と室町幕府は別々のものではなくて、建武の新政を挟んで連続していると言わ...
源頼朝

【鎌倉幕府の成立】源頼朝を補佐した文士官僚たち

源平合戦といわれる治承・寿永の乱になかで、源頼朝の勢力圏が拡大するなかで増加していった家人こそが、中央である京都への反乱政権である頼朝の軍事的基盤であり、権力基盤でもあったのです。頼朝がこの権力を行使するためには一般行政事務を担当する者が必...
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源頼朝

【鎌倉幕府の成立】清和源氏・源頼朝と東国武士の関係

河内源氏と関東 清和天皇の皇子である経基王が臣籍降下して、源姓を賜ったことに始まる源氏を清和源氏とよびます。経基王は、源経基と名乗ります。 清和源氏と呼ばれる子孫は、その根拠地から河内源氏・大和源氏・摂津源氏と呼ばれるようになります。 ...
鎌倉時代

足利義兼・鎌倉幕府内で足利氏の基盤を作った人物

将来を期待されながらも、若くしてその一生を終えた足利氏祖の足利義康(1127~1157)。その義康のあとを継いだのは、熱田大宮司藤原季範の娘を母とする三男の義兼(よしかね)です。 義兼の母は、源義朝の妻で頼朝の母である由良...
鎌倉時代

【足利氏祖】足利義康・将来を期待されるも早すぎる死

1155年(久寿二年)6月26日、源義国は長男新田義重の新田荘で死去しました。源義国のあと、足利荘を継いだのは足利義康で、足利氏祖となります。 足利氏祖義康 1127年(大治二年)、足利義康は父源義国と母源信濃守有房の娘との間に生ま...
鎌倉時代

源氏の嫡流足利氏と執権北条氏の蜜月の関係

1333年(元弘三年)、足利尊氏が鎌倉幕府六波羅探題を攻め滅ぼすという歴史的事件が影響しているせいか、足利氏と北条氏の関係は悪かったという印象が世間一般にあると思われます。 もちろん、ギクシャクした時期もありますが、基本的には足利・北...
鎮西探題

【鎮西探題滅亡】阿蘇治時と最期の探題赤橋英時

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の2度目の倒幕運動は失敗に終わりました。後醍醐天皇は幕府に捕らえられて隠岐へと流されます。 →元弘の変 しかし、その余波は畿内だけでなく各地に広がっていきました。 後醍醐天皇の皇子護良親王が吉野で...
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