得宗北条氏

鎌倉時代

【霜月騒動】御内人と御家人の戦い・平頼綱、安達泰盛を滅ぼす

得宗北条氏の被官(家来)を御内人(みうちにん)とよびます。その御内人の筆頭のことを内管領(ないかんれい)とよびます。 この内管領は役職名ではなくて、得宗家の執事という意味合い程度で、室町幕府の管領(かんれい)と異なります。室町幕府の管領も...
鎌倉時代

【弘安徳政】情けの武将安達泰盛の政治

1281年(弘安四年)、鎌倉幕府は元軍による侵略を防ぎ止め撤退に追い込むことに成功しました。 文永の役記事 弘安の役記事 翌年の1282年(弘安五年)、執権北条時宗は南宋出身の僧侶の無学祖元(むがくそげん)を迎えて、鎌倉に円覚...
鎌倉時代

【2回目の蒙古襲来】元寇・弘安の役

1274年(文永十一年)の元寇・文永の役で、元軍は謎の撤退をしました。 文永の役 元の再来に備えた鎌倉幕府 しかし、その後も元国皇帝フビライからの使者が、数度にわたって日本に派遣されています。 再び元からの使者 1275年(建...
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鎌倉時代

【元寇】蒙古再来に備える幕府と西日本に拡大する北条氏勢力

1274年(文永十一年)の元・高麗軍による日本侵攻は(文永の役)、対馬から肥後・筑前の九州沿岸地域に大きな損害をもたらしました。本格戦闘はたった1日でしたが、御家人の奮闘もむなしく日本軍は敗色濃厚となったのです。 ところが翌日、元・高麗軍...
鎌倉時代

【1回目の蒙古襲来】元寇・文永の役

1271年(文永八年)8月、元使の趙良弼(しょうりょうひつ)が来日し、従わなければ武力行使もやむなしとの脅しで日本側の返書を要求しました。結局、彼は返書を与えられないまま帰国します。 そしてまた、1273年(文永十年)3月、元使の趙良弼は...
鎌倉時代

【元寇前夜】蒙古使者と異国の防御をすすめる鎌倉幕府

日本の中世における外交史の中で、もっとも強烈な事件は蒙古襲来でしょう。文永・弘安の役と言われ、今となっては歴史の中に埋もれてしまいがちですが、江戸末期の開国・太平洋戦争(大東亜戦争)に匹敵する国難だったと言えるのではないでしょうか。 結論...
鎌倉時代

時宗の執権就任~将軍宗尊親王の追放&二月騒動、寄合政治の本格化

1263年(弘長三年)11月、北条時頼は最明寺において37歳の生涯を閉じました。戒名は最明寺道崇。 執権・得宗北条時宗の誕生 当時は6代執権赤橋流北条長時、連署は政村でした。時頼の子の時宗はまだ13歳。幕府としては、まだ眼代(中継ぎ)として...
鎌倉時代

【引付衆設置など】御家人の負担軽減策を行った北条時頼

北条時頼は、寄合という秘密会議や執権職を譲渡した後も実権を握り続けるなどして、自身の立場や北条得宗家を中心とした幕府政治を強化していくようになります。 その一方で、優れた御家人政策を行っていました。 つまり、北条一族内には強い態度で...
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