東国政権として誕生した鎌倉幕府は、西国に勢力を伸ばすにつれて出先機関を作っていきます。幕府の拠点を西へ移すという発想はなかったようです。鎌倉幕府は、承久の乱を機として西国支配強化のために六波羅探題を設置しました。
今回は、蒙古襲来・元寇を機に鎮西(九州)にまで勢力を拡大した幕府が設置した鎮西探題についてのお話しです。
鎮西探題設置の背景
1285年(弘安八年)11月。弘安徳政を主導した安達泰盛は、平頼綱ら得宗家御内人によって攻め滅ぼされます。
→弘安徳政
→霜月騒動
かわって政権の運営にあたったのは、平頼綱で、1293年(永仁元年)4月に平禅門の乱で滅亡するまで、幕府を牛耳っていました。
→平禅門の乱
頼綱は、安達泰盛のやり方を否定しました。
特に、泰盛肝いりの政策だった鎮西名主職安堵令は明確に否定されます。
安達泰盛は、鎮西の名主職保持者(本所一円地住人=非御家人)が、御家人になることができる政策を行いました。
なぜそんなことをしたのでしょうか?
幕府は、元の再来襲に備えて非御家人を御家人同様に幕府守護の下で働かせる必要がありました。しかし、元寇は防衛戦争でしたから、御家人のみならず非御家人にも与える恩賞がありません。そこで御家人という地位を恩賞として与えていこうとしたのです。
これを鎮西名主職安堵令といいます。しかし、非御家人の領主たる貴族や寺社は幕府に猛抗議します。
簡単に言えば、自分の所領の代官が、自分ではなくて幕府に仕官先を変えるようなものです。しかも、所領はそのままです。
政権を取った平頼綱は朝廷・寺社の意をくんで、安達泰盛以前の状態に戻したのです。
しかし、鎮西では引き続き蒙古襲来に対して備える必要がありましたから、その戦力となるべき人々が持ち場を離れては困ります。
そこで、鎮西の御家人が六波羅や鎌倉まで訴訟のために持ち場を離れるのを防ぐために、鎌倉・六波羅に代わる組織を鎮西に置く必要が生まれたのでした。
鎮西談議所の設置
1286年(弘安九年)7月。博多に鎮西談議所が設置されます。少弐経資・大友頼泰・宇都宮通房・渋谷重郷の4人が頭人となって談議所を運営しました。
彼ら4人の頭人の主な任務は、4人で話し合って九州での相論(訴訟)を裁くことです。
ただし、現地で判断が難しい場合は、幕府に報告するよう定められています。
鎮西談議所は訴訟を解決するほかに、九州の御家人たちを統率する機関として役割を果たしました。
鎮西談議所の頭人たち
ここで、鎮西談議所頭人に選ばれた人物の簡単な略歴を見ておきましょう。
少弐氏
少弐経資は資能の子です。資能は、蒙古からの使者から国書を受け取った鎮西西方奉行で、筑前の守護でした。
→蒙古使者
経資は、その立場を引き継いでいて、安達泰盛の弘安徳政では合奉行でした。安達泰盛が平頼綱に討たれた霜月騒動は全国各地に波及しましたが、九州で起こった岩戸合戦では弟の景資を滅ぼします。1292年(正応五年)に没すると、子の盛経がこれを継ぎました。
大友氏
大友頼泰は、鎮西東方奉行でした。豊後の守護で、弘安徳政の合奉行をつとめています。少弐経資とともに、幕府の鎮西における有力者です。1300年(正安二年)に没すると、子の親時があとを継ぎました。
頭人の少弐経資と大友頼泰は、蒙古合戦の恩賞の分配も担当しています。
宇都宮氏
宇都宮通房は、もとは下野国の御家人でした。1286年(弘安九年)には得宗がつとめる肥後国守護の代官として九州に下向したようです。得宗と近い関係によって鎮西奉行所に起用されたと考えられています。
渋谷氏
渋谷重郷は、もとは相模国の御家人でした。一族が得宗の被官となっているので、宇都宮通房と同じように、得宗との関係によって起用されたと考えられます。
鎮西談議所は、九州の有力御家人少弐氏と大友氏、北条得宗家に近い宇都宮氏と渋谷氏を配置することで、九州の意向と鎌倉の意向が調整される仕組みとなっていたのです。
異国打手大将軍の下向
1292年(正応五年)。またまた高麗の使者がやってきました。
3度目の蒙古襲来を予期した幕府は、3度目の異国征伐(高麗征伐)を計画します。元の対日侵略の拠点を、逆に日本から攻撃する計画です。かつて、時宗はこの計画を2度立案しました。しかし、いずれも計画で終わっています。
→蒙古再来襲に備える
異国打手大将軍には、北条兼時と名越時家が選ばれました。兼時は得宗で執権の時宗の猶子。猶子とは家督・財産の相続がない養子のようなもので、貴族や武家ではよく行われていました。したがって、兼時は時宗の子貞時と兄弟のような関係なのです。時家は幕府二番引付頭人の公時の子です。
1293年(永仁元年)。兼時と時家は、それぞれ大軍を率いて鎌倉から鎮西に向かいます。
鎮西各守護には、兼時の指揮に従うように厳命が下り、鎮西談議所の4人(少弐氏・大友氏・宇都宮氏・渋谷氏)の頭人も、彼の指揮下に入りました。
地頭御家人および本所一円地住人は、守護の軍事動員に従うように定められます。本所一円地住人は、平頼綱によって御家人となる道を閉ざされていましたが、引き続き軍事動員される対象でした。
兼時・時家は異国打手大将軍で、特に兼時は軍事指揮権を与えられていて、役割は軍事的なものが中心でした。
兼時は防塁の整備や兵員の要害地への配置などを守護に命じています。異国征伐に打って出る計画を立てていたと考えられますが、ここでの行動は防備を固めることに注意が向けられていたようです。
一方で彼らは、訴訟の審理も行っています。
2人が鎮西に下向する際、幕府引付奉行人の安富氏父子が従っています。子の安富頼泰は、兼時の右筆です。右筆とは、貴人の文章を代筆の代筆を行う役割をさします。政治家の秘書官のような立場みたいなものでしょう。
兼時のもとには、詳細ははっきりしていませんが、引付があったようです。安富氏らは、この引付の奉行人として期待されたと考えられています。
鎮西探題の成立へ
1295年(永仁三年)4月。二年の滞在期間を経て、兼時と時家は鎌倉に戻ります。鎌倉で兼時は評定衆となり、同年9月に没します。時家は引付衆となり、のちに三番引付頭人にまで出世しています。兼時と時家に替わって、金沢流北条実政が九州に下向することによって鎮西探題が成立します。
以上、鎮西探題ができるまでの話として、鎮西談議所と異国打手大将軍の鎮西下向について解説いたしました。
コメント