高校日本史の教科書には、「長講堂領と八条院領は持明院統と大覚寺統に継承された」と書いてあります。なぜ、継承されたのかについてほとんど触れられていませんので、今回はこの点について見ていきましょう。
王家(天皇家)領荘園は平安時代末期(院政期)に急激に増加し、鎌倉時代には全国に6百~7百カ所におよび、当時の荘園領主の中で断トツの荘園群を有していました(のちに鎌倉幕府にその座を譲ります)。
この膨大な荘園群は、一括して天皇家の所領として伝えられたのではなく、荘園成立の由緒によって大小いくつもの荘園群にまとめられ、それが天皇家の人々の間で、離合集散を重ねながら伝えられていきます。
長講堂領と八条院領の由来
長講堂領
王家の荘園群のなかでも最大級といえるのが長講堂領と呼ばれる荘園群です。
長講堂とは、後白河法皇の六条御所(京都西洞院六条)にあった御願寺である法華長講弥陀三昧堂のことで(現在は富小路五条)、法皇がこの長講堂に荘園を寄進しておいたのが長講堂領です。
鎌倉時代初期には、その数は180ヵ所におよび、長講堂自体が法皇の所有なので王家(天皇家)の荘園といえます。興福寺や延暦寺という寺社勢力の荘園とは意味合いが異なります。
1181年(養和元年)、源頼朝が挙兵して東国を固めた翌年、後白河法皇の寵妃でありながら院において権勢をふるった丹後局(高階栄子)は皇女覲子(きんし)内親王を生みます。後白河法皇55歳の子で、1191年(建久二年)に11歳で女院号を受け、宣陽門院と称します。翌年三月、法皇が崩じると、法皇の処分状によって長講堂領を譲り受けました。
彼女は25歳で剃髪し、1252年(建長四年)6月、72歳の生涯を終えるまで、長講堂領を守り通します。
八条院領
王家(天皇家)に伝わる荘園群のうちに、長講堂領に並ぶもう一つの大きな荘園群がありました。八条院領と呼ばれる荘園群です。
八条院領は、鳥羽法皇によって集積された荘園群が、寵妃美福門院(藤原得子)が生んだ皇女八条院暲子(しょうし)に伝えられたものです。
さらに、母の美福門院が没したあと、美福門院の遺領である歓喜光院領も八条院に伝えられ、他に八条院が直接寄進を受けた荘園や平家没官領の一部まで加わったので、八条院領はますます膨大になり、百数十カ所におよびました(承久の乱後は221ヵ所以上)。そのうち主な荘園群は安楽寿院領です。安楽寿院とは、鳥羽法皇の別荘鳥羽離宮(京都市伏見区竹田)にあった御願寺です。
つまり、八条院領は「安楽寿院領+歓喜光院領+その他」です。
後鳥羽上皇の荘園集約と鎌倉幕府
後白河法皇が没した後、「治天の君」の座についた後鳥羽は、皇族に分割伝領されていた国衙領以外の皇室領を集積し始めます。主な対象は莫大な長講堂領と八条院領。
長講堂領を手中におさめるために後鳥羽上皇は、皇子の六条宮雅成親王(まさなりしんのう)を宣陽門院の養子として長講堂領を相続させようとしました。
もう1つの八条院領。後鳥羽上皇は、自身の皇女である春華門院昇子を八条院の養女として八条院領を相続させ、春華門院の死後は後鳥羽の子で、春華門院の弟にあたる順徳天皇に相続させることにして手中におさめました。
このようにして、長講堂領と八条院領は後鳥羽上皇の実質的支配下に置かれ、後鳥羽院政の経済基盤となりました。
その他、はじめから歴代の上皇に伝領されてきた多くの荘園群(六勝寺など)もありました。さらに、後鳥羽院政の時代になって、新たに上皇に寄進されたものも少なくなく、後鳥羽上皇はその一部を実母の七条院の所領とします。荘園38ヵ所からなる「七条院領」です。
1221年(承久三年)、承久の乱によって後鳥羽上皇が敗れると、上皇側に加担した長講堂領を相続する予定だった六条宮は但馬に、八条院領を相続した順徳天皇は佐渡に配流となります。
承久の乱後の八条院領・長講堂領
八条院領の行方
順徳天皇が名義人となっていた八条院領は、幕府に没収されたのち、幕府によって後高倉院に返されます。その際、幕府は「幕府が必要になったときは返すこと」という条件を付けています。幕府が王家(天皇家)の財政基盤を支配下においた瞬間といえるでしょう。
1223年(貞応二年)5月、後高倉院の皇女安嘉門院邦子へ伝領されました。安嘉門院は、1283年(弘安六年)9月までの60年間、膨大な荘園の相続人としての生涯を送ります。
安嘉門院は、姪の室町院に八条院領を譲与し、室町院の死後に自身の養子としていた亀山上皇(大覚寺統)に伝領するように定めていました。
ところが、1283年(弘安六年)に安嘉門院が没すると、亀山上皇(大覚寺統)は即座に幕府に訴え、室町院の一期分(その人物一代限りの権利)を否定して、強引に安嘉門院遺領(=八条院領)を手に入れます。
ライバルである兄後深草系統(持明院統)が長講堂領を伝領していたのに対して、亀山系統には長講堂領に匹敵する荘園を有していなかったことから(それでも十分莫大なのですが)、早く八条院領を伝領して対抗しようとしたのです。
こうして、八条院領は大覚寺統の財政基盤になります。
室町院領の行方
また室町院は、叔母の式乾門院から譲られた所領を有していましたが、後嵯峨や後深草(持明院統)からの強引な働きかけを受けて、最初は亀山(大覚寺統)へ、のちに伏見(持明院統)へと譲与先を変更し、1300年(正安二年)に室町院が没すると、幕府の調停により両統が遺領を折半して伝領することが決められたのでした。
長講堂領の行方
一方の長講堂領は、幕府に没収されたかどうかは明らかになっていません。承久の乱後は、但馬に配流された六条宮雅成親王に代わって、鷹司院(近衛長子)が宣陽門院の養女になって、後深草が宣陽門院の猶子となります。宣陽門院は、自身の死後、鷹司院に一期分として伝領したあと、後深草に伝領することを決めていました。
ところが、1252年(建長四年)6月に後嵯峨上皇の説得を受けて、後深草天皇(持明院統)に譲与して没します。
こうして、長講堂領は持明院統の財政基盤になりました。
両統の荘園集積の理由
なぜ、両統はこのような強引な荘園集積を行ったのでしょうか。両統の経済基盤の確保は当然ですが、御願寺領を手に入れて父祖の菩提を弔う権利を継承することで、自身が正当な皇位継承者と主張するためだったのです。
女院は「政治に無縁」と考えられていたからこそ、王家(天皇家)領荘園を管領してきたのですが、両統迭立の時代になると荘園は政治的意味合いをもつようになったわけです。
こうして、鎌倉後期に女院領は消滅し、両統は公家政権最大の荘園領主になったのです。
以後、両統の惣領たる院は、自統の王家(天皇家)構成員に広く所領を譲与すしますが、それらは一期分が基本とされ、死後には院あるいは次代の惣領に返付されることが定められて、王家領は基本的に院が管領権を掌握することとなりました。
この中で、王家構成員は自身の所領を独自に相伝することができなくなり、王家領は両統の家長のもとに一元的に集約されることになったのです。
公家の動向
なお、こうした動向は、天皇家内部だけでなく、公家社会の動きとも連動しています。
公家の家では、分割相続・婚姻・寄進などによって庶子家や他家・寺社に所領が流出することが多々ありましたが、13世紀中ごろから、分割相続した庶子家の所領についても嫡流家が管領・確保しようとする傾向が現れます。
荘園の維持が困難となり公家社会の経済基盤がひっ迫していく中で、天皇家も公家も、嫡流家が一門全体の財産を管理して権益の維持・立て直しをはかろうとしていたのでした。
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