河内源氏の衰退を解説~義家・義綱・義光・義親・義忠・為義たち

院政の時代
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鎌倉幕府創設者源頼朝の父義朝、祖父為義。頼朝の父や祖父の時代、つまり保元の乱前後の河内源氏は、貞盛流平氏(伊勢平氏)の勢いに押されて、平氏に対抗するのに「やっと」という状況。源頼義・義家というスーパースターを生み出した河内源氏はなぜ退勢に立たされたのでしょうか?

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源義家と源義綱

義家の没落

1088年(寛治二年)に陸奥守を罷免されて帰京した源義家は、「後三年の役」を私戦とされ、さらに陸奥守としての納税の責務を果たさなかったとして、半ば謹慎状態に置かれます。

 

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しかし、1091年(寛治五年)6月、義家と弟義綱が京都で兵を集めて武力衝突寸前の状態になりました。これまで、都で本格的な武力衝突は起こったことはなく、当時の京都の人々の恐怖は半端ないものだったことでしょう。のちの関白藤原師通は、その日記に「城境の関は固められ、世間は騒動して静かならず」と記し、『百錬抄』には、「天下の騒動これより大なるはなし」と伝えています。

この武力衝突寸前にいたった理由は、義家の従者藤原実清と義綱の従者清原則清の河内での所領争いにありました。朝廷は検非違使を派遣してこの争いを止めさせるとともに、宣旨を五畿七道に発して、義家の随兵の入京を禁止し、さらに諸国の百姓が田畠を義家に寄進するのを禁止しました。五畿七道に宣旨を発していることから義家の勢力の大きさをうかがい知ることができます。

しかし、義家へのこれらの措置は、義家が武士を糾合して棟梁の立場にあったことに対してというよりも、彼が陸奥守としての責務を放棄した挙句に、私戦を引き起こした問題ある受領と朝廷から認識されていたから行われたと考えられています。

つまり、一昔前までは、義家の人気に対する貴族の嫉妬と朝廷の警戒によって厳しく処断されたと言われていたのですが、現在は、義家は問題国司だったので、貴族から厳しく処断されたと考えられています。

義綱の興隆

こうして、河内源氏の嫡流義家は失脚しました。かわって武士の第一人者になったのが弟義綱です。彼は、頼義の次男で兄の八幡太郎義家、弟の新羅三郎義光と同じく平直方の娘を母として生まれました。彼は、賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれますが、義家と騒動を起こすまでは有名人ではありませんでした。つまり、義家・義光の方が有名だったのです。それでも、義綱は前九年の役で父頼義に従って安部貞任を討ち、その功によって左衛門少尉に任ぜられています。

 

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後三年の役では、弟の義光は窮地に立つ義家を救援するのために、陸奥に下向しましたが、義綱は京都に留まっています。

義家が都に帰還した1088年(寛治二年)、義綱は11月の春日祭において、祭使藤原忠実に随兵30騎で随行しています。この行事を境に、義綱は兄義家に代わって摂関家から最も信頼される武者となったようです。兄義家がダメ国司のレッテルを貼られたので、弟義綱に光が当たったのです。

1093年(寛治七年)には陸奥守に任じられました。翌1094年に隣国の出羽で国守を襲った平師妙を討伐し、その功から従四位下に叙され、美濃守に転任しました。『中右記』には、「義綱の武勇の威、おのずから四海に満つるの致すところか」と義綱の武勇を褒めています。

1095年(嘉保二年)に美濃の延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際に、寺側と小競り合いになり、僧を殺害する事件が起こりました。延暦寺は朝廷に対して強訴で義綱処分を求めましたが、関白師通はこれ断固拒否し、義綱は処分を免れることができました。関白師通はこれが原因で、延暦寺の恨みを買うことになり、呪詛されます。これが原因かどうかは定かではありませんが、四年後に師通は急死し、呪詛を信じた貴族たちが大いに怯えたことから、神輿や御神木による強訴が頻発することになります。

 

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義家の巻き返し

中央政界での影響力を伸長させる義綱の一方で、義家は巻き返しをはかります。1098年(承徳二年)1月、ようやく陸奥国の官物・公事を完済し、受領功過(任期を終えた受領に対する成績審査)を通過しました。陸奥守を解任されて10年後のことで、ようやく陸奥守の責務を果たすことができたのです。

この背景には白河上皇の意向があったようですが、この年の10月、義家は白河院殿上への昇殿を許されるとともに、正四位下の位を与えられました。「昇殿」とは、上皇の住む殿舎に出入りすることが認められることで、義家は院の側近になったことを意味していました。義綱が摂関家と結んで武士の第一人者を目指すのに対して、義家は白河院に近侍して義綱に対抗したのです。

1099年(承徳三年)6月、義綱の後ろ盾だった関白師通が急死します。先ほども述べた通り、延暦寺の呪詛によって殺害された、と当時は信じられていました。この師通の死によって、摂関家の勢力は後退し、義綱は大きな打撃を受けることになりました。

 

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源義親と源義国

義家に挽回のチャンスが訪れたわけですが、義家にも問題が起こりました。嫡子の対馬守義親が乱行を起こしたのです。

1101年(康和三年)7月、大宰府の命に従わず、住民を殺害して公物を奪ったとして太宰大弐大江匡房に告発されます。朝廷は義親の追討を検討しますが、白河院の配慮があったらしく、追討は実行されませんでした。朝廷は、義家の腹心で後三年の役に従った下野守藤原資通が召喚に赴いています。

その藤原資通は義親と結んで、朝廷が派遣した官僚を殺害します。資通は召喚されて獄に入り、1102年(康和四年)に義親は隠岐へ配流となりました。

さらに、関東では子の義国が、義家の弟義光と常陸で5年にもわたって合戦に及びます。延々と続く源氏の内訌に激怒した白河院は、父義家に義国の捕縛を命じています(義光にも捕縛命令が下されています)。ちなみに、義国は足利氏・新田氏の祖です。

 

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西で義親が、東で義国が乱行を働き、河内源氏への信用が失墜する中、1106年(嘉承元年)7月に義家は京都で没しました。

その翌年、隠岐に流されていた義親は出雲に渡って、出雲守藤原保家の目代と郎党を殺害して、官物を奪い取るという事件を起こします。近隣諸国にも義親に組する反国衙の動きがあるという噂があり、山陰地方に動揺が起こりました。

伊勢平氏の登場

白河院はこれ以上義親をかばうこともできず、1107年(嘉承二年)12月に白河院の側近として頭角を現しはじめていた武士、貞盛流平氏・因幡守平正盛に義親追討の宣旨を下します。追討使に任じられた正盛は翌年1月に出雲に到着し、さっそく合戦におよびました。勝負は、出雲に到着してから13日後、京都を出発して1ヵ月後に結し、義親をはじめ従者5人が討ち取られました。

この結果、正盛は但馬守に任じられます。『中右記』には、「正盛は最下品の者だが、彼が第一級(当時の但馬は先進地域だった)の国守に任じられたのは、上皇のお気に入りだからだ。正盛はラッキーだ(超意訳)」と述べています。

正盛によって「武士の長者」義家の嫡男義親は滅ぼされ、院側近の武士の第一人者の地位は、義家から正盛へ、河内源氏から貞盛流平氏(伊勢平氏)へと移ることになり、源氏は退勢に立たされることになります。

続く源氏の不幸

源義忠の死

1109年(天仁二年)2月3日の夜、検非違使源義忠が刃傷をうけ、それがもとで5日に死去する事件が起こります。26歳。この義忠は、義親の弟で、義国の兄にあたる人物ですが、義親・義国と違って優秀な人物でした。義家は、義忠を源氏の正嫡と定めていました。

源義綱一族の滅亡

義忠を襲った容疑者に義綱の子義明が入っていたことから、義綱も追討されることになります。追討使に命じられたのは、義親の嫡子為義。頼朝の祖父です。

2月16日、義綱は京都を逃れて東国に逃亡をはかるも、25日に近江甲賀で為義に発見され、京都に連れ戻されました。

近江甲賀では、追討使の為義が攻めてくると、義綱は出家して降伏しますが、長男義弘は父に自害をすすめるため、谷間に身を投じて自害、次男義俊も兄と同時に投身自害、四男義仲はその場で火に身を投じて自害、五男義範は切腹、六男義公は後日自害しました。三男の義明は、病のために父に随行せずに乳母父滝口季方の邸に隠れていましたが、追手の源重時の攻撃を受けて自害して果てます。唯一生き残った義綱は、佐渡に配流となります。

義忠を殺害した犯人は、新羅三郎義光と言われています。義光は、常陸で甥の義国と争いましたが、京に戻ってからは甥の義忠が源氏嫡流を継承したことを妬み、郎党の鹿嶋冠者に命じて義忠を討ちます。目的を果たした鹿嶋冠者は、三井寺で待つ義光に報告。義光は書状を添えて鹿嶋冠者を弟の僧(快誉)の宿坊へと送ります。快誉は前もって深い穴を掘っておき、鹿嶋冠者を穴に落として埋めて殺害におよんだと伝えられています。

義光が犯人かどうかは定かではありませんが、義家死後の源氏内部は後継者争いが深刻となっていたことをうかがい知ることができます。

追討使為義は、この功によって左衛門尉に任ぜられましたが、わずか14歳。「武士の長者」といわれた河内源氏は瓦解し、伊勢平氏へその座を譲ることになりました。

参考文献

竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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