後醍醐天皇の内裏造営・貨幣鋳造計画

建武の新政
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後醍醐天皇は、鎌倉幕府に変わって天皇の時代が到来したことを天下に知らしめるために、「元弘」から「建武」に改元を行いました。

いわく付きの元号だった「建武」の由来

この改元とならんで、天皇の時代を天下に知らしめる趣旨で起こされた事業があります。

それは、大内裏の造営と貨幣の鋳造です。

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大内裏の造営

天皇の正式な皇居を大内裏といいますが、10世紀後半以降に大内裏が焼けてからは、しばらく外戚の邸宅を仮の皇居(里内裏)としていました。

以降、天皇は里内裏を内裏として使うようになっていきます。そして、ついに1219年(承久元年)の大火で大内裏が焼失すると、大内裏の再建は行われませんでた。

後醍醐天皇は伯耆国(鳥取県西部)から帰京して富小路殿(富小路夷川下ル)とよばれる里内裏に入ります。

しばらくして、富小路殿を拡張することになりした。一部は実行に移されたようですが、1334年(建武元年)に入って、改めて平安時代のような大内裏を再建しようと考えたのでした。

権力者が壮大な宮殿によって権力を誇示するのは古今東西行われる現象ですが、後醍醐天皇の大内裏再建計画は人々を苦しめる以外の何ものでもありませんでした。

『太平記』によれば、造営費として周防・安芸の国衙領(国有地)の収益だけでなく、全国の旧幕府の地頭・荘官(荘園の管理者)に「二十分の一税」と呼ばれる税を課すことで費用をまかなおうとしました。

その他に、全国一律に一段別何升という役夫工米(やくぶたくまい)を荘園領主に課しました。この役夫工米は伊勢神宮の改築費などに賦課されるものです。

当然、これらの課税は領民に転嫁されます。全国の領民たちは1331年(元弘元年)から鎌倉幕府滅亡までの3年間におよんだ元弘の乱で疲弊しきっていて、新しい課税に耐えられる状態ではありません。

そんな状態ですから、事情を知っている人々(貴族・武士・農民問わず)はやる気など起こるはずもなく…

1335年(建武二年)6月になって、ようやく造営担当機関(造内裏行事所)が開所式を行っている状況で、「大内裏造営着手はいつのことになるのやら」というレベルの遅さだったようです。

貨幣鋳造

日本では、貨幣鋳造は10世紀頃に途絶えて、平清盛が日宋貿易を開始して以来、宋銭・元銭が流入するようになっていました。

当時は、それらの中国貨幣が流通していたのですが、後醍醐天皇は貨幣についても平安の昔に戻って政府発行の貨幣を通用させようとします。

貨幣鋳造計画の背景

律令制度においては、貨幣の鋳造は「改元」と同様に、天皇にしか行使できない権力の一つです。

後醍醐天皇は貨幣を造ることによって全国津々浦々に自らの力を示そうとしたのです。しかも、「乾坤(天地の意)通宝」という後醍醐天皇らしい命名の仕方で…

ちなみに、律令時代において「私鋳銭」という通貨偽造の罪を犯した者は、大赦令の適用から除かれるくらい重罪でした。天皇の権力に触れる行為だからです。通貨を発行できる天皇の権限はスゴいのです。

この鋳貨政策は、後醍醐天皇の単なる自身の「権威高揚」のためだけに行われたわけではありません。「作らざるを得ない」事情もあったのです。

というのは、平安後期から徐々に進んできた貨幣経済は、13世紀に入ってから急速に発展しました。

この頃書かれた吉田兼好の『徒然草』に、「銭を君のごとく神のごとくおそれ尊べ」と説いた大福長者の話が出ているのはそのあらわれと言えるでしょう。

鎌倉時代は貨幣経済が発展した時代。なぜ銭が流通したのか解説。

この貨幣経済を動かしていたのが、綿座・刀座・油座などと呼ばれる特権的な商人団体で、彼らは個別に寺社や貴族、朝廷の下級官衙(役所)に分属して、利益を争っていました。

また後醍醐天皇は、1330年(元徳二年)に飢饉によって米価が高騰したとき、これを抑制するために、米価を自ら決定し、京都の二条通に米市場を立てて、米商人を集めて強制的に売らせるという手段を取ったことがありました。

後醍醐天皇は、貨幣鋳造権を行使することで物価をコントロールし、座を直接掌握することで利権構造を統制しようと考えたと推測できます。

紙幣発行計画

後醍醐天皇の貨幣鋳造を行う趣旨の詔によれば、「銅、楮(楮紙:こうぞかみ)併用」とあって、銅銭のほかに、日本で初めて紙幣を発行する計画があったようです。

元の「しょう銭(紙幣)」の知識が入ってきたからと考えられていますが、後醍醐天皇は貨幣政策について先進的な知識を持っていたようです。

しかし、この造幣計画がどこまで実行されたかはほとんど明らかになっていません。

鋳銭司という役所を設置して、職員を任命したそうですが、各地で発掘される銅銭の中に「乾坤通宝」は一枚も発見されていません。

鋳銭も大内裏と同様に計画で終わったと考えられています。

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

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