後醍醐の綸旨万能と武士たちの不満

建武の新政
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6月5日に、伯耆国(鳥取県西部)の船上山(せんじょうさん)から帰京した後醍醐天皇を待っていたのは、京都六波羅を撃破し、六波羅探題に変わって京都を手中に収めた足利高氏と、それ警戒して信貴山から高氏に圧力をかける護良親王(後醍醐天皇の子)の対立でした。

後醍醐天皇は、足利高氏の取り込みをはかる一方で、新しい政策を次々と打ち立てます。ついに、天皇親政が始まったのです。しかし、それは現実離れした政治でした。武士たちは所領支配を巡って不満を募らせていきます。

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後醍醐の所領政策

後醍醐天皇が帰京して11日目の6月15日。

後醍醐天皇は、旧領回復令・朝敵所領没収令・誤判再審令・寺院没収令などを次々と発布します。

旧領回復令 : 倒幕運動に関わったために、幕府に所領を没収された旧領主にその所領を返還させ、その後の土地の所有権の変更はその都度、後醍醐天皇自らの裁断が必要という法令。

朝敵所領没収令 : 鎌倉幕府側についた武士・貴族の所領を没収する法令。

誤判再審令 : 鎌倉幕府の裁判の誤りを正し、敗訴人を救済することを目的とする法令。

寺院没収令 : 鎌倉幕府が建立した寺院の所領を没収する法令。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府の恩恵を受けた公家・武家・寺家に対する報復措置を行いました。勝者として当然の行動です。

綸旨至上主義

後醍醐天皇は、これらの法令で訴訟・申請の裁断は「綸旨(りんじ)」によることを強調します。

綸旨とは、天皇の側近に仕える蔵人(くろうど)が、「天皇の意向」を記した文書のことです。

天皇が発する様々な文書の中で、綸旨は天皇の意志をもっとも直接的に通達するものなので、その威力は強力です。

後醍醐天皇が目指す政治は、朝廷の最高機関である太政官や、後三条天皇の天皇親政の拠点となった記録書の文書すら用いませんでした。全て綸旨です。

このように、後醍醐天皇の綸旨への思い入れはすさまじく、従来は綸旨を与えられる資格のなかったような下級の武士にまで綸旨を交付したり、本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどだったといいます。

 

後醍醐天皇は、綸旨を絶対・万能の効力をもつ文書にしようとし、綸旨で人々を直接支配しようとしました。

旧領回復ブームと政治の停滞

後醍醐天皇が次々と発布した施策は、「旧領回復ブーム」を巻き起こし、政治の停滞を引き起こします。

たとえば、旧領回復令は「元弘の乱」期間中に幕府によって没収された旧領だけを対象とするようになっていました。

ところが実際には、はるか昔に失った旧領まで適用されてしまいます。

東国武士で源宗秀という者が、甲斐の身延山の僧侶に出した手紙には、「人々は六、七代前の先祖の所領回復を訴え出ている。自分は祖父の代に理不尽に所領を没収されたので、これを取り返すべく息子を上洛させた」と述べています。

6、7代前と言えば、1代20年としても120~140年前ということになりますから、鎌倉幕府創業期にあたります。

旧領回復令は「元弘の乱(1331~1333)」のときに失った所領の回復を認めた法令ですが、幕府創業期に失った所領を回復しようと人々は上洛しているのです。

なぜ、こんなことになったのでしょうか?

旧領回復令と同時に出された「誤判再審令」が原因です。

この法令は、鎌倉幕府の裁判の誤りを正し、敗訴人を救済することを目的としたものですが、古い時期にも適用されていたことから、過去にさかのぼって裁判を行うことを可能にしたのです。

後醍醐天皇は、誤判再審令を発布することで鎌倉幕府が下した判決そのものを否定し、鎌倉幕府や御家人によって奪われた公家の所領を回復しようとしていたと考えられます。
誤判再審令の対象期間が古い時期まで適用されたことから、人々は遥か昔に幕府によって奪われた所領を回復できると考えました。

真面目に所領を回復したいという人々がいる一方で、当然悪知恵を働かせる人々も現れます。

ある土地を旧領と称して、返還の訴えをおこすものが3人もあらわれ、よく調べてみると、その中の2人は架空の人物だったという話。

他人に訴訟の代理を依頼し「数打ちゃ当たる」方式でむやみやたらと訴訟を起こす人々の話。

真面目に旧領回復を目指す人々。悪知恵を働かせて所領を獲得しようとする人々。様々な人々が何とかして所領を獲得しようとする「旧領回復ブーム」が巻き起こりました。

過去にさかのぼって、旧領回復しようという動きが過熱してくると、困るのは現在所領を支配している人々です。

いつ旧領主に所領を奪われるかわかりません。綸旨が絶対になった以上、所領を守る手段はただ一つです。

旧領主に先んじて当知行安堵(事実的支配の確認)の綸旨を獲得することです。

幕府打倒の恩賞の申請者、旧領回復の訴人に加えて、当知行安堵の訴人が「綸旨」を得ようとして京都に殺到しました。

しかしながら、月6回の開廷、1回の採決20件以内という当時の裁判制度を無視して後醍醐天皇が日夜裁判に励んだとしても、処理しきれる量ではありませんでした。

かつて北条時宗や貞時のころ、執権による所領裁判の直接裁断を試みましたが、裁判の量が多すぎて失敗に終わっています。後醍醐天皇も同じ失敗をしたのです。

能力の限界を超える膨大な裁判に忙殺されることによって、後醍醐天皇の政務が停滞しています。

後醍醐の慣例無視と武士の不満

後醍醐がたいへんな意気込みでスタートさせた親政は、あっという間に停滞します。

その理由は、全てが天皇の直接裁決という専制的なやり方によって、自らの処理能力を超える裁判量に対応できなくなり、政務が停滞したからでした。

さらに、誤判再審令そのものが当時の所領支配のルールを無視した法律だったので、武士たちの不満は募ります。

1232年(貞永元年)、鎌倉幕府が制定した御成敗式目の第8条に「当知行(所領の事実的支配)は20年経過すればその人のもの」というルールが規定されていました。現代の民法162条も20年ルールです。

当地行20年ルールは、御成敗式目以来、御家人の社会では当然のルールで、御家人ではない荘園領主の間にも広がっていました。

しかし、誤判再審令によって100年以上もさかのぼって裁判が行われるなど、土地の支配を巡るルールは無視され社会は混乱します。

また判決ののち一定年月を経過すれば、同じ訴訟の再審理は認めないという不易法も、誤判再審令によって破棄されます。

つまり、決着がついているはずの所領問題が蒸し返されるようになったのです。

武士社会で定着していた法的慣習を後醍醐天皇が無視したことによって、武士たちが不満を募らせました。

鎌倉幕府が整えた所領支配のルールは、当時の社会一般に広く受け入れられていました。しかし、後醍醐天皇がそれを無視したことで、多くの武士は不満を募らせていくことになります。

旧幕府御家人たちの不満

朝敵所領没収令は旧幕府の御家人たちの不安・不満を募らせました。

この法令の朝敵の範囲は、旧幕府側についた武士・貴族でしたが、「朝敵」と「官軍」の区別を明確にしなかったことで、朝敵の範囲は解釈次第で限りなく拡大できることになりました。

鎌倉幕府にとどめを刺した足利高氏・新田義貞も、1333年(元弘三年)4月までは「朝敵」だったわけで、大勢が逆転したのちに倒幕側に加わった武士や、高氏の勧告によって幕府軍の陣列をはなれた武士は朝敵なのかそうでないのか明らかにされませんでした。

ですから、彼らを朝敵と認定して所領を没収するかどうかを決めるのは、後醍醐天皇らの倒幕側の裁量にゆだねられていたのです。

この点、源平の争乱が平家の滅亡したとき、所領没収の対象を平家一門と家人の所領に限定したことや、承久の乱後、京方の所領を没収した際にも、院・朝廷の首謀者と京方に積極的に参加した一部の武士に限定して、貴族と武士の動揺をおさえた先例に後醍醐天皇は学ぼうとしなかったのです。

朝敵所領没収令が発布されたことによって、旧幕府の御家人はいつ所領を没収されるかわからない不安定な状況下に置かれました。

旧幕府の御家人たちの不安と不満の声は、彼らの多くを配下に入れて、六波羅探題の後継者といえる立場にあった足利高氏を突き動かしていくことになるのです。

 

 

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

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