後醍醐天皇自身の皇位の維持と自分の子孫への皇位の継承のためには、両統迭立の原則に立つ幕府を倒すほかに道はありませんでした。また、後醍醐天皇が理想とする「延喜・天暦の治世」への回帰のためには、(それを邪魔すると彼が考えていた)幕府・院政・摂政関白を廃止する必要がありました。
後醍醐天皇は院政を廃止し、さらに足利高氏の謀反によって六波羅探題が滅亡します。
後醍醐の念願は、まもなくかなえられようとしていたのです。
今回はその続きから見ていきましょう。
関白解任
足利高氏が京都六波羅を制圧したのは1333年(元弘三年)5月7日。それから10日後の5月17日。後醍醐天皇は、関白の鷹司冬教(たかつかさふゆのり)以下を解任する勅(みことのり)を伯耆国(鳥取県西部)から京都に送りつけます。
後醍醐天皇は、光厳天皇在位中の任官・人事をすべて無かったことにすることで、光厳天皇の在位そのものを否定し、関白を廃止することで天皇親政を宣言したのです。
後醍醐天皇は、平安時代半ばの醍醐・村上天皇による親政時代(延喜・天暦の治)を理想としていました。
延喜・天暦時代は、幕府・院政・摂政関白がなかった時代ですので、後醍醐天皇はこの廃止を目指します。
5月23日、後醍醐天皇は船上山(せんじょうさん)を下って帰京の途につきます。六波羅が滅んだ今、京都・西国には幕府の脅威はありません。
後醍醐天皇が隠岐を脱出してから3か月の間、彼を一身に守り抜いた伯耆国(鳥取県西部)の豪族名和長年とその一族が護衛の任務につき、六波羅の滅亡を聞いて、身の振り方を変えた近国の武士も続々とその行列に加わりました。
光厳天皇廃位
出発の翌々日の5月25日、後醍醐天皇は鎌倉幕府が自分の次に即位をさせた光厳天皇と年号の「正慶」を廃止します。過去に使用された正慶は全て「元弘」に置き換えられることなりました。
(当サイトは「元弘」で統一しています)
関白以下の解任、光厳天皇の廃位と年号廃止によって、全てを後醍醐天皇が配流される前の状態に戻そうとしたのです。
幕府滅亡
後醍醐天皇の一行は、伯耆(鳥取県西部)から山越えに播磨(兵庫県南西部)に出て、5月30日摂津の兵庫(兵庫県神戸市)に着いたところで赤松則村・則祐父子、翌6月1日兵庫を出たところで楠木正成の迎えを受けます。
そして同日、鎌倉幕府滅亡の知らせがもたらされます(実際に滅亡したのは5月22日)。
新田義貞による鎌倉攻めを時系列に解説した記事
帰京途上での鎌倉幕府滅亡の知らせは、どれほど後醍醐天皇を喜ばせたことでしょう。彼のはしゃぐ姿が目に浮かびます。
六波羅復活
後醍醐天皇が理想とする政治の舞台は整えられたかに見えました。
ところが、後醍醐が京都に戻る頃、京都周辺では彼にとって意外な情勢が展開していたのです。
1か月前に消え去ったはずの六波羅探題が復活していたのです。正確に言えば、足利高氏が新探題のごとく京都の支配を固めていたのです。どうしてそうなったのか見てみましょう。
高氏は、丹波国篠村(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に反旗を翻した直後から、各地の守護や地頭らに密書を送っていて、倒幕への参加をよびかけていました。
六波羅軍を撃破すると、彼はいち早く六波羅に陣を構えます。
そして、旧探題の職員はじめ多数の在京御家人を配下に収め、京都支配を着実に進めます。また、高氏の倒幕の呼びかけに応じて上洛してきた武士の多くを傘下に収めていきました。
さらに、楠木正成のこもる千早城を包囲していた旧幕府軍に六波羅滅亡を告げて帰属を呼びかけたので、多数の御家人が囲みを解いて高氏のもとにおもむいたと『太平記』は伝えています。
高氏が積極的に武士たちを配下に収めていったのは、自らの軍事力の増強というよりも、治安維持の側面が高かったと考えられます。
特に楠木攻めに参加していた旧幕府軍の御家人たちを放置するわけにはいきません。主を失った旧幕府軍が暴徒と化し、乱暴狼藉を働くことによって京都周辺の治安が悪化すれば、人々の怨嗟の声は京都進駐軍といえる足利軍に向けられることになるからです。
高氏の昇進と護良親王
六波羅軍のごとき足利軍の勢いを見て、帰京した後醍醐天皇は大いに焦ったのでしょう。
6月5日、後醍醐天皇は帰京し里内裏に入りますが、その日に高氏に内昇殿をゆるし、「鎮守府将軍」に補任します。
さらに12日、尊氏を従五位上から2階級特進の従四位下に昇進させて左兵衛督(さひょうえのかみ)に任命し、弟直義を左馬頭(さまのかみ)に任命しました。
一方、護良親王の率いる軍勢は奈良の北西にある信貴山(しぎさん)に立てこもり続けます。
護良親王は、高氏の呼びかけに応じて千早城の囲みを解いた旧幕府軍の動向を監視するとともに、信貴山から京都の高氏をけん制しようとします。
護良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、当初は比叡山に入って出家し尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と名のっていました。倒幕運動中に還俗して護良と改名します。
後醍醐天皇は信貴山の護良親王に勅使を送って、すみやかに帰京すること、再び出家の身に戻ることをすすめます。
しかし、護良親王はこれを聞かないどころか、高氏に「幕府再興の野心あり」と父後醍醐天皇に訴えて、ついに高氏討伐の兵を起こそうとしたのです。
6月23日、後醍醐は護良を征夷大将軍に任じることで、ようやく入京させることができました。
征夷大将軍・護良親王
護良親王が補任された征夷大将軍は、鎌倉幕府における最高の役職です。
源氏3代将軍はともかく、4代将軍九条頼経以降になると、将軍が特別な権力持つということはありませんでしたが、武家の棟梁として権威の象徴であり続けました(権力は執権北条氏が持つようになります)。
武家政治・幕府を否定する後醍醐天皇としては、武家の棟梁という性格をもつ(=武士を従わせることができる)征夷大将軍だけは絶対に復活させてはならない称号だったはずです。
それにもかかわらず、後醍醐天皇は帰京するとすぐに護良親王を征夷大将軍に補任しました。
よく言われるのが、護良親王が高氏の「幕府再興の野望」を指摘して、これをはばむために自らこの称号を求めたという説ですが、倒幕直後の高氏に「幕府再興の野望」は無かったのではないでしょうか。
むしろ、日に日に声望が高まる足利高氏に対抗するために、護良親王が征夷大将軍の称号を求めたのではないでしょうか。
また、高氏はすでに鎮守府将軍に任じられていたので、護良親王が鎮守府将軍より格上の征夷大将軍の称号を後醍醐天皇に強要しても不思議ではありません。
征夷大将軍になれば諸国の武士を招き入れて、足利高氏に対抗できる軍事力を持つことも可能です。
後醍醐天皇は、高氏と護良親王が軍事衝突をおこして、自身が行う親政が早々に頓挫してしまうことを避けたかったがゆえに、自らの理想を犠牲にして、容認できない征夷大将軍の称号を護良親王に与えたと考えるべきでしょう。
その後の護良親王
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
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