1192年(建久三年)、平清盛・源頼朝と壮絶な主導権争いを繰り広げ、その源頼朝から「日本一の大天狗」と言われた治天の君、後白河法皇は崩御されます。そして、次の治天の君になったのは後鳥羽上皇でした。
治天の君とは、天皇家の長者のことです。
後鳥羽上皇の院政
1198年(建久九年)、後鳥羽天皇は譲位し、3歳の土御門天皇が即位することによって、後鳥羽院政が始まります。
後鳥羽上皇は多彩な才能を有する、非常に優れた天皇でした。文化・芸術に造詣が深く、武芸も自ら習練していました。そして、政治力も優れていたのです。
1210年(承元四年)、後鳥羽上皇は土御門天皇を譲位させ、弟順徳天皇を立てて朝廷内の統合をはかるとともに、院の絶対的権力の確立に努めました。
経済基盤の強化
後鳥羽上皇は、皇族に分割伝領されていた国衙領以外の皇室領を集積し始めます。主に2つの巨大な荘園が対象となります。
その1つが、100カ所以上の荘園からなる長講堂領です。長講堂というのは後白河法皇が建立した持仏堂で、現在は京都市下京区にあり、源氏物語のモデルとされる源融の別荘・河原院があったところの近くです。もとは現在の京都御所がある土御門東洞院にあったといわれています。
後白河法皇はその死に先だって、自分の多くの荘園を長講堂に寄進しました。この長講堂が所有する荘園を長講堂領というのですが、その後、法皇の皇女である宣陽門院(せんようもんいん)に譲られました。
後鳥羽上皇は、皇子の六条宮こと雅成親王(まさなりしんのう)を宣陽門院の養子として長講堂領を相続させることで、長講堂領を手中におさめたのでした。
もう1つが、200カ所以上の荘園からなる八条院領です。八条院は鳥羽法皇の皇女で、彼女は父鳥羽法皇の安楽寿院領と母美福門院の所領を相続したのですが、これらを合わせて八条院領とよびます。
後鳥羽上皇は、皇女の春華門院(しゅんかもんいん)を八条院の養女として相続させ、彼女の死後はさらに順徳天皇に相続させることで手中におさめました。
これらの巨大な荘園領が、後鳥羽院政の経済的基盤として確立されていくことになります。
これらの所領は、後の天皇家分裂における持明院統と大覚寺統の経済基盤になります。長講堂領は持明院統の、八条院領は大覚寺統の荘園となりました。
ちなみに、足利氏の本拠地である足利荘は八条院領です。大覚寺統の後醍醐天皇が八条院領の御家人に倒幕の綸旨を発した際、足利荘にも届いていることが考えられ、それが足利尊氏の挙兵につながったと考える説もあります。
軍事基盤の強化
また上皇は、これまでの天皇・上皇に見られないほど武芸の習練に率先し、さらに院の御所にそれまであった「北面の武士」に加えて、「西面の武士」を新設し、院政の武力基盤も強化していきました。
11世紀末に白河法皇が設置した院直轄の軍事組織です。
北面の武士は院御所の北側に詰めたことからそう呼ばれ、上皇の身辺警護や行幸にお供をしました。中右記によれば、比叡山の僧兵が強訴してきたとき、それに派遣された武士は1千人だったことが記され、主に対僧兵用の軍事組織と言われています。平正盛・忠盛親子は、北面の武士筆頭になることで、院での地位を向上させていきましたが、後鳥羽上皇のころには北面の武士の機能は弱まっていたと考えられています。
西面の武士は院御所の西側に詰めたことからそう呼ばれ、弱体化した北面の武士を補強する形で創設されました。
後鳥羽上皇と御家人
後鳥羽上皇のころ、北面の武士や西面の武士に取り立てられた者に多くの御家人がいました。これらの御家人の多くは「在京御家人」と言われ、畿内周辺の守護で警備のために京都に常駐した人々でした。
このことからわかるように、守護とは単に幕府を守護するという意味ではなく、「諸国守護」と称されるように、朝廷を含む国家体制の守護を意味していました。京都大番役といわれる京都警備もその一つです。
したがって、後鳥羽上皇は幕府を経ることなくその都度、とくに西日本の守護に京都大番役を命じることができるのでした。幕府の軍事警察機構である守護制度は、朝廷の軍事警察的役割も果たしていたといえるのです。
守護の権限は、御家人に対して京都・鎌倉大番役を催促する権限、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕があります。
守護は自分が管轄する国の御家人に対し、京都警護である京都大番役を催促することができます。ですので、守護の命を受けた地頭などの御家人は西面の武士として院の警護の任務につきました。
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が作り上げた守護による大番役催促の権限を最大限に利用し、地頭などの御家人を動員することを可能にしていったのです。
このことが承久の乱のとき、御家人を動揺させることになります。朝廷・幕府のどちらにつけばよいのか?混乱してしまうわけです。
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