1120年(保安元年)に当時関白だった忠実が、白河院の勅勘を蒙り、子の忠通に関白を譲ってから35年。あるいは、崇徳院の希望もむなしく後白河天皇が即位し、藤原忠実・頼長父子が失脚した翌年のこと。いよいよ、源平の「武者の世」を告げる保元の乱が勃発します。
しかし、この乱。実はあっけなく終わってしまいます。一夜で終わってしまいます。乱に至るまで、何十年という年月がかかっているにも関わらずです。
それでも、この乱は天皇家や摂関家の骨肉の争いが武力によって解決した事件として、とても重大な意味があります。
今回は、この乱がどのような戦いだったのか見てみましょう。
鳥羽院崩御
1156年(保元元年)4月ごろに鳥羽院が発病します。6月初めには危篤状態になるほど病が悪化。死期をさとった鳥羽院は、近臣の藤原公教を崩御後の諸事を担当する奉行に任じ、さらに、院宣を下して下野守源義朝・左衛門尉足利義康に禁中を守護させ、出雲守源光保・和泉守平盛兼以下源平二氏の武士には鳥羽殿で院に伺候することを命じました。
ついに、翌7月2日午後4時に崩御。遺言によって即日入棺されます。
崇徳院は、鳥羽院の危急を聞いて鳥羽殿に駆けつけましたが、鳥羽院の近臣藤原惟方によって拒否され、失意のうちに退去しました。
そして、いよいよ保元の乱が勃発するのです。
乱の発端
追い込まれる崇徳院と藤原頼長
鳥羽院崩御の翌日7月3日、東三条邸(摂関家長者の屋敷)に上皇方の武士が籠もって、夜は謀反の計画を企て、昼は東三条邸の真南に隣接していた里内裏高松殿(後白河天皇の仮御所)をうかがっているという噂が流れました。
さっそく後白河天皇は、源義朝に命じて東三条邸の留守をしている小監物光員以下を捕縛させます。
7月5日、検非違使に命じて京中の武士が騒ぎ立てているのを抑えさせ、平基盛・平惟繁・足利義康の合流を命じます。翌6日、平基盛が東山法住寺において、左大臣藤原頼長に召されて大和から入洛して、潜伏していた大和源氏の源親治を捕らえました。
7月8日、忠実・頼長父子が諸国の荘園から武士を召集しているという噂があることから、これを停止することを諸国に命じた綸旨が出されました。同日、天皇側は高階俊成・源義朝に東三条邸を攻撃させて、付属の蔵町も没収して義朝に守らせます。この東三条邸の蔵町には氏長者のシンボルである朱器・台盤が納めてあって摂関家の本宅という意味合いがあった重要な邸宅でした。
この際、この邸宅内で秘法を修していた宇治平等院の僧勝尊を捕らえ、本尊・文書を没収します。
『保元物語』によれば、勝尊は「関白殿と左大臣殿の御兄弟和平の祈祷をしていた」と弁明しましたが、このときに没収した頼長の手紙に叛意が記されていたので、11日には頼長を流罪に処することを決めたそうです。
したがって、頼長と勝尊は何らかの陰謀を企てていたと考えられています。
ついに、頼長の進退もここに窮まり、頼長と同心していると噂されていた崇徳院も窮まったのです。
崇徳上皇方の動き
9日の夜半になって、崇徳院はひそかに鳥羽殿の田中御所から白河の前斎院(詢子内親王)の御所に移りました。頼長が強くすすめたようです。しかし、斎院御所が手狭だったことから、翌10日に隣の白河北殿に移って兵を召集しました。
崇徳院の召集に応じた武士のうち、平氏は右衛門大夫平家弘・大炊助平康弘・右衛門尉平盛弘・兵衛尉平時弘・前右馬助平忠正とその子の崇徳院北面平長盛、左大臣家(頼長)の勾当平忠綱・正綱らでした。源氏は前大夫尉源為義とその子前左衛門尉源頼賢・八郎源為朝・九郎為仲、摂津源氏の源頼憲・盛綱父子でした。
崇徳院側の主兵力は源氏の棟梁源為義とその子息・郎等でしたが、ほとんどの源氏の郎等は為義の子義朝について後白河天皇側に属しました。この時、為義は67歳で老齢の上、前年に鳥羽院の勅勘を受けて籠居したこともあって、崇徳院の召集に気が進まなかったことから度々辞退を申し入れていますが、ついに押し切られて召集に応じました。
夕方になって藤原頼長が宇治から入洛して白河北殿に入って、崇徳院や院近臣左京大夫藤原教長、居並ぶ源平らと共に軍議を開きます。
平忠正や源頼憲は「すぐに兵を動かして合戦におよばん」と主張し、為義も「味方は無勢ゆえに、ここで待ち戦をしては勝ち目はあるまい」として、次の三策を提案します。
- 至急宇治または近江まで下向して、東国武士その他武士の来援を待つ。
- 関東武士の到着が遅くなるようだったら、崇徳院が関東まで下向して召集する。
- 1・2案も実現できないならば、先手をうって内裏を攻撃する
頼長は、それほど急ぐこともないだろうから、大和・吉野の援軍を待つことを主張し、為義の三策を退けました。
『保元物語』では、この軍議において為義は、経験豊かな為朝を推薦しました。為朝は内裏の夜討ちを献策しますが、頼長は「天皇と上皇の国を二分する戦に夜討ちをかけるのはもっての他。合戦は謀をもってもととし、勢いをもって先とす。今晩中の軍兵はいくばくもないから軽率に行動すべきではない」と一蹴しました。
為朝は「義朝は合戦の心得があり、必ず明日を待たずに夜討をしかけてきましょう。味方は、義朝ら敵勢に襲われて慌てふためくことでしょう!」と言って退出したといいます。
後白河天皇方の動き
天皇方では、崇徳院が兵を募っているのを見て、ただちに武士を集めました。すでに禁中守護に伺候している源義朝・足利義康らのほか安芸守平清盛・兵庫頭源頼政・散位源重成・左衛門尉源季実・同平信兼・右衛門尉平惟繁らを召集します。
『保元物語』によると、鳥羽院は、生前にこのような乱が起こることを予想して、召集する武士として源義朝・足利義康・源頼政・平信兼・平実俊の5名を記していました。平清盛は崇徳院の皇子重仁親王と乳兄弟にあたり、その名が省かれていましたが、美福門院が「鳥羽院の御遺言にて、参内せよ」と命じたといいます。清盛を召せという遺言は定かではありませんが、清盛は天皇方に参加したことで、彼の運命は大きく変わったのは間違いありません。
内裏では、関白忠通以下の大部分の廷臣が参入していましたが、万事は鳥羽院の御遺命によって美福門院が取り仕切っていたようです。清盛・義朝は御所に召されて合戦の作戦を奏上しました。
乱勃発
10日夜半、後白河天皇は関白忠通以下の廷臣を従えて、前々日接収した東三条邸に移りました。高松殿が手ぜまで、上皇方が攻めてきたときの防戦は不利だったからです。
明け方、清盛は手勢3百騎を率いて二条大路方面から、義朝は手勢2百騎で大炊御門大路(現竹屋町通)から、義康は百余騎で近衛大路(現出水通)から崇徳院ら上皇側が籠もる白河北殿に攻め寄せました。天皇の遷御を無事に済ませると、源頼政・源重成・平信兼らの兵も合戦に投入されました。
天皇方は次々と兵を投入し、上皇側に攻めかかりますが、天皇方は源為朝の奮戦によって苦戦しました。清盛勢・義朝勢に多くの負傷者が出たといいます。後白河天皇は、神仏に願をかけ、廷臣らも神仏に祈るなど、合戦は武士・貴族を巻き込んだ壮絶なものとなりました。
そして、午前8時になって東の方角に煙が上がりました。攻め寄せていた天皇方が火をつけたのでした。火をつけられると上皇方はあっけなく敗北し、崇徳院と頼長は逃亡し、斎院御所と白河北殿は焼け落ちました。
乱の終結
天皇方は残敵を追って法勝寺を捜索し、源為義の北白川円覚寺の屋敷を焼き払い、正午ごろには清盛・義朝・義康らの兵の大部分は内裏に引き上げてきました。後白河天皇は、味方の勝利をきいてもとに居た高松殿に還御しました。
崇徳院と頼長はともに行方不明となりました。頼長は流れ矢に当たって死んだといわれましたが、生死のほどは不明。為義以下の武士たちも行方をくらましました。宇治にいる前関白忠実は、頼長の敗北を聞いて奈良に逃亡します。
この乱にいたるまで、何十年という天皇家と摂関家内部での確執が発端になったにも関わらず、このように保元の乱はあっけなく終わります。しかし、その結果は貴族や武士が全く想像できない方向へと進むことになります。いよいよ、武士が本格的に中央権力の座に躍り出てくるのでした。
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