ややこしい人間関係の保元の乱。今回は、摂関家が分裂していく経緯についてみていきましょう。
天皇家の分裂については、こちらの記事をご覧ください。
忠実・忠通親子
まずは、藤原忠実。道長-頼通-師実-師通-忠実の順に藤原北家御堂流は継承されていきました。忠実は白河上皇の信任が厚かったことから、関白でありながら院政にも参画しています。そして、鳥羽天皇が皇太子のときに、皇太子傅に任じられ、それがきっかけで鳥羽天皇と近い関係になり、鳥羽天皇の即位後も摂政・関白となり、内覧に任じられました。白河院の忠実への信頼をうかがい知ることができます。
しかし、鳥羽天皇が成長するにしたがって、鳥羽天皇と白河院との関係が微妙になると、忠実はその影響を受けるようになります。そして、白河院政の末期になると、院と忠実の意見がしばしば対立するようになり、1120年(保安元年)11月、ついに忠実の内覧(天皇へ奏上される文書や天皇が発する勅を前もって見ることができる権限)が停止されました。翌年3月には、忠実の嫡子忠通が関白となり、忠実は宇治に籠居しますが、この事件をきっかけに、摂関家内部で忠実・忠通父子の間に亀裂が生じることになります。保元の乱の敵対関係第1弾といった感じでしょうか?
対照的な忠通・頼長兄弟
白河院が没して鳥羽院政が始まると、忠実は鳥羽院の意向で復権します。鳥羽院政のもとで摂関家は勢力を盛り返し、忠実を中心とする摂関家の政治的影響力は強くなりました。院政時代といっても、常に院が強いわけではありません。院・天皇・摂関それぞれが、その時の状況に応じて力を強めたり弱めたりしています。
忠実の努力によって摂関家の勢力が回復しますが、ここで主導権争いが生じます。忠実・忠通父子が対立し、ついには忠通・頼長兄弟の争いに発展します。保元の乱の敵対関係第2弾です。
忠通・頼長兄弟がどのようにして対立していったのか見てみましょう。
そもそも、忠通と頼長兄弟は対照的な人物だったようです。生まれの面では、忠通の母は右大臣源顕房の娘だったのに対して、頼長の母は忠実の家司として仕えた藤原盛実の娘ということで、母親の身分の違いには大きな開きがありました。
また、忠通は和歌・音楽などに通じた風流人だったのに対して、頼長は中国の経書や史書に精通した学者肌でした。頼長が24歳になるまでに読んだ経書や史書は1030巻にのぼっていて、その後も常に書物を手から離さなかったそうです。さらに頼長は、酒や遊びを退け、学問に励み、優れた才能を発揮していました。
忠実は、優秀な頼長に期待を寄せるようになりました。もちろん、忠通がアホというわけではありません。忠通も大変優秀です。
忠通は、白河院から政務や先例を諮問されたとき、つまずくことなく見事に全て答えたといいます。また書道の名手で法性寺流という流派の始祖とされているほどです。
また、白河院が父忠実を廃して忠通を関白にしようとしたとき、忠通は「関白職は父の譲りを得た上でお受けすることが代々の慣例となっています」と主張して、先例にしたがって関白職を受ける手続きを踏むことを白河院に求めています。
頼長も優秀ですが、忠通も優秀な人物だったのです。
頼長が26歳になった1145年(久安元年)4月、忠実は律令格式・除目叙位・官奏格記などの先祖伝来の貴重な記録書を頼長に与えています。忠実は、頼長を藤原氏御堂流を継がせようと考えたのでした。
ちなみに、この時代の家の継承に関しては、長男が継ぐべきという考え方は一般的ではなく、年齢や才能などによって決められるべきという考えが主流でした。
この1145年(久安元年)の時点で、忠通は摂政(49歳)で父忠実の失脚をうけて関白となって25年が経過。頼長は内大臣(26歳)になってから10年が過ぎようとしていました。しかし、忠通の子基実は3歳で、頼長の子兼長と師長は8歳と5歳で、基実よりも年上でした。
忠実が、忠通から頼長に摂関の地位を譲らせ、さらにその子兼長・師長へと継承させようと考えても不思議ではありません。そこには、忠実の並々ならぬ苦労があったのです。
忠実の苦労
忠実は父師通のあとを受けて1099年(康和元年)に20歳で内覧となり、1107年(嘉承二年)の鳥羽天皇の即位に際して摂政となり、1113年(永久元年)に関白となりました。その間、白河院と院近臣の高階為章・藤原顕隆などの反摂関家と対抗しながら、摂関家や春日大社・興福寺などの氏神・氏寺の保護をはかるとともに、摂関家勢力の維持・発展につとめました。
そして、保安元年に関白を罷免されても、白河院政から鳥羽院政の中で復権し、摂関家の勢力回復に奔走しました。頼長も父の努力の影響を受けて、朝廷の儀式復興につとめ、摂関家の朝廷における主導権確立に努力したのです。
忠実は忠通を説得して、氏長者と摂関の座を頼長に譲らせようとしましたが、忠通から頼長への摂関の地位移譲は行われませんでした。当然、忠通にも現職の摂関としてのプライドがあったでしょうし、摂関を自らの子に伝えたいという思いもあったことでしょう。忠通にとっては、百歩譲って摂関の地位を頼長に移ったとしても、我が子基実が長じれば摂関の地位が譲られるという保証がなければ承諾できなかったのです。
しかし、先にも見たように、基実は頼長の子兼長と師長よりも年少でしたが、年少の者が摂関の地位につけば、その未熟さから摂関の権威の低下を招くことになるを忠実は恐れていました。白河院政下において、低下した摂関家の権威回復を目指してきた忠実にとって、摂関の権威低下だけは絶対に避けたいことだったのです。
忠実・頼長 vs 忠通
こうした中で、頼長の養女多子の入内問題が起こり、忠通と頼長の対立は決定的となります。
頼長は妻の姪にあたる多子を幼少の頃から養って養女とし、成長してから近衛天皇の後宮に入れる内諾を鳥羽上皇から得ていました。1149年(久安五年)に予定されていた近衛天皇の元服が延長されたことから入内の時期がずれ込みましたが、翌久安六年1月、多子の入内が実現しました。
この多子入内をめぐって、忠通はその入内を妨害し、立后に表立って反対しました。そして、多子に対抗して美福門院得子の養女となっていた藤原呈子を引き取って養女とし、多子入内の後を追って入内させます。この呈子の入内は美福門院の後押しによって実現しました。
この一連での忠通の強硬な態度によって、忠実と忠通は決裂しました。1150年(久安六年)9月26日、忠実は源為義らの武士に警護させる中で、忠通との父子の縁を切り、氏長者の地位を忠通から取り上げ、頼長に与えます。摂関家はついに分裂したのでした。
内覧と関白の並立
このような状況のもとで、鳥羽院のとった態度がさらに混乱を引き起こします。
院は忠実の願いを引き受けて頼長に内覧の宣旨を下す一方、忠通に対しては摂政から関白に任じたのでした。関白と内覧が並立するという前代未聞の事態が生まれました。内覧とは天皇に奏上される文書を、前もって見ることができる権限で、この権限は関白の職に付帯していました。「内覧だからこそ関白、関白だからこそ内覧」なわけです。それが分離して、内覧ではない関白、関白ではない内覧という事態が生じたのです。
この鳥羽院の優柔不断な態度の背景には、忠通の背後にあった美福門院の影響があったと考えられています。これ以降の政局は、美福門院の動向がカギを握ることになります。
参考文献
竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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