「武者の世」の到来を告げた大乱「保元の乱」。源頼朝の父義朝、足利氏祖の足利義康が活躍しますが、この大乱は彼ら武士たちが引き起こした戦いではなく、天皇家と摂関家の分裂に端を発したものでした。この分裂は非常に複雑で、何が何やら意味不明という方も多いのではないでしょうか。今回は、保元の乱の要因の一つ「天皇家の分裂」についてみていきましょう。
白河院政と鳥羽天皇
保元の乱の原因の一つに天皇家の分裂にあります。しかし、なぜ天皇家が分裂してしまったのでしょうか。それは、白河院と鳥羽院の確執から始まったようです。
白河院の後に即位した堀河天皇は名君だったようで、白河院政が強烈に行われることなく天皇親政が行われます。白河院と堀河天皇の関係も表立って悪化ということはありませんでした。実際の裏側はわかりませんが、白河院は堀河親政を見守っていたようです。
ところが、1107年(嘉承二年)に堀河天皇は若くして崩御します。そして、白河院の孫で堀河天皇の皇子である鳥羽天皇が即位しました。まだ5歳。
5歳の天皇では政治を行えるはずもなく、白河院政が本格化することになります。確かに、摂政には藤原忠実が就任しましたが、白河院や院近臣の影響を大きく受けての就任だったので、摂政の力も大きく弱まっていました。
白河院は、権大納言藤原公実の娘璋子を養女として育て、これを鳥羽天皇の摂政藤原忠実の嫡男忠通に嫁がせようとしました。しかし、この璋子には素行に色々な噂があって、忠実は辞退します。そこで法皇は、この璋子を鳥羽天皇の中宮として入内させました。そして、待賢門院の院号を贈ります。ときに1118年(元永元年)1月のことで、鳥羽天皇は16歳、待賢門院璋子は18歳。
翌年5月28日、待賢門院璋子は顕仁親王を生みました。『故事談』には、顕仁について次のような話をのせています。
「待賢門院璋子は白河院御猶子(養子)という資格で入内された。その間に白河院は密通された。これは誰もが知っていることで、崇徳院(顕仁親王)は白河院の御胤子という。鳥羽院もその由御存じで、叔父子とよんでおられた」
つまり、鳥羽と待賢門院璋子の間に生まれたことになっている崇徳は、本当は白河と待賢門院璋子の間に生まれた子ということです。
余談ですが、その璋子の生んだ皇女はいずれも絶世の美女だったそうです。詢子内親王については「端正美麗、眼の及ぶ所に非ず」、禧子内親王については「是れまた容顔斎院(詢子内親王)に勝れ給う」と言われています。璋子の容姿を伝える文献はないそうですが、皇女の評判からして相当美人だったのではないか?と推測されています。
それゆえか、鳥羽天皇は「叔父子」の事実を知りながらも、待賢門院の間に四皇子二皇女をもうけました。その一人が雅仁親王、清盛や頼朝の前に立ちはだかった後白河天皇です。
さて、話を戻して、白河院は顕仁親王が5歳になった1123年(保安四年)1月、鳥羽天皇を退位させ、親王を即位させました。崇徳天皇です。19歳の鳥羽天皇を強引に退位させた理由は、「崇徳天皇が白河院の子だからだ」と、当時の人々は噂していました。
当然、鳥羽院は強引に退位させられて不満を持ちますが、祖父と孫とではあまりにも年齢が違いすぎて手も足も出ない状況でした。そして、この頃から白河院と鳥羽院の関係は冷却し、鳥羽院はあらゆる点で白河院政に対して批判的な姿勢をとるようになります。
白河院の死と鳥羽院政
鳥羽天皇を退位させ、強引に崇徳天皇を即位させてから6年、1129年(大治四年)7月に白河院は77歳で没しました。例年になく暑い年で高齢だったことからでしょうか?下痢を起こした白河院は一夜で重体になり、7月7日に急死しました。
この時を心待ちにしていたに違いない鳥羽院はさっそく院政を開始します。その院政は、ことごとく白河院政を否定したものでした。
まず、鳥羽院は近臣の入れ替えを行います。祖父以来三代にわたって白河院の近臣として権勢を誇った藤原顕盛一家は、鳥羽院の勅勘を受けて退けられました。その理由は、顕盛が白河院に近侍していたとき、鳥羽院に随行することを求められ、それを辞退したという些細なものでした。
一方で、引き上げられた者もいます。藤原忠実です。忠実は鳥羽天皇の在位中に関白となり、白河院政にも出仕していました。白河院は、忠実の娘泰子を鳥羽天皇の後宮に入れるように求めましたが、忠実はこれを拒みました。また、待賢門院璋子を忠実の嫡子忠通に嫁がせる話があったとき、その素行にとにかく噂があるのを嫌って拒んだのも忠実です。
忠実は、自身の娘泰子の入内を拒んだのは、璋子のような目にあうことを恐れたからと言われています。
白河院の意向をことごとく拒む忠実が無事であるはずがなく、1120年(保安元年)11月、関白忠実の内覧が停止され、翌年3月には関白を罷免されて、宇治に籠居することになります。次に関白になったのは、嫡子の忠通でした。
ところが、鳥羽院政が始まると、忠実は鳥羽院のもとに出仕するようになり、1132年(長承元年)には、関白忠通が在職中にも関わらず内覧を停止され、忠実に内覧の宣旨を受けます。内覧とは、天皇の奏上される文書や天皇が裁許する文書を前もって閲覧する権限のことです。関白はこの権限があるからこそ関白だったわけで、内覧の権限のない関白は有名無実なわけです。
忠通は名前ばかりの関白となりました。忠実と忠通の間に亀裂が入り、摂関家分裂の要因となります。このことも保元の乱の要因となります。
忠実は、白河院の意向を拒んで娘泰子を入内させませんでしたが、1133年(長承二年)に鳥羽院の女御として入内させます。白河院亡き今、泰子が璋子のような目にあう心配はないからです。
白河院はその臨終のとき、鳥羽院に対して泰子を入内させてはならないことを遺言したようですが、鳥羽院はそれを無視。それどころか、太上天皇(上皇)の夫人を皇后に立てた先例はないという公卿の非難を無視して、1139年(保延五年)には泰子を皇后に立てます。泰子には高陽院(かやのいん)という女院号が贈られました。
高陽院泰子は皇子・皇女を生むことはありませんでしたが、鳥羽院は忠実を重用します。忠実もまた、鳥羽院のために御所や釈迦堂を造営して、院をよろこばせました。
鳥羽院による白河院政の否定は、荘園政策にもおよび、白河院が熱心だった荘園整理は中止されたばかりでなく、むしろ積極的に推進します。忠実は、忠通に譲っていた自身の荘園を取り上げて、院に献上するなど積極的に奉仕しています。
崇徳天皇の退位
白河院が没すると、鳥羽院と待賢門院璋子の間が冷却します。白河院の晩年には、この二人はすでに不和だったようですが、決定的となったのは太政大臣藤原長実の娘得子の入内でした。得子の院号は美福門院といいます。1139年(保延五年)には皇子躰仁親王(なりひと)を生みました。ちなみに、高陽院泰子は、鳥羽院と美福門院の間に生まれた叡子内親王を養女としています。
さて、鳥羽院は生後三カ月の躰仁親王の立太子の儀を行い、1141年(永治元年)に3歳の躰仁親王を即位させます。近衛天皇です。この過程において、崇徳天皇はだまされて譲位する形になりました。
鳥羽院は、崇徳天皇の弟にあたる躰仁親王を崇徳の子とすることを条件に譲位を迫りました。近衛天皇は崇徳院の弟ですが、養子となれば、のちに崇徳院による院政が可能となりますから、崇徳院は了承します。ところが、譲位の宣命に皇太子躰仁と書かれているはずが皇太弟躰仁と記されていました。皇太弟では譲位後に院政を行うことは不可能となります。
鳥羽院の謀略によって退位に追い込まれた崇徳院の失意は大きかったに違いありません。父であるはずの鳥羽院から「叔父子」と呼ばれ、さらに皇位を奪われた崇徳院。崇徳はこの後10余年、自身の子重仁親王の即位と院政の実現に向けて雌伏の日々を送ることになります。この皇位継承の経緯が、やがて保元の乱の一因となるのでした。
参考文献
竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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