北条政子は、征夷大将軍ではありませんが、頼朝・頼家・実朝の源家三代将軍が滅んだあと、実質的な将軍の役割を果たしたことから、「尼将軍」と呼ばれました。
北条政子は、日本三大悪女の一人に入っているようですが、悪女どころか御家人たちに慕われた女性だったようです。確かに、実家の北条氏に甘く、夫・子供に厳しいところがありますが、良くも悪くも北条政子の人柄というものです。
今回は、北条政子の生涯について見ていきましょう。
誕生から結婚まで
1157年(保元二年)、北条政子は伊豆国三方郡北条で生まれました。伊豆国の在庁官人で、後に鎌倉幕府初代執権となる北条時政の長女とされています。母の名は未詳。同母兄弟に宗時・義時・時房がいるとされていますが、本当に同母兄弟かどうかはわかりません。
異母弟に政範、姉妹には時子(足利義兼妻)・阿波局(阿野全成妻)・稲毛女房(稲毛重成妻)・畠山重忠妻(後に足利義純妻)らがいます。
頼朝の出会いは、父時政が平時の乱後に伊豆へ配流された頼朝の監視役だったことがきっかけと言われています。
そして、『吾妻鏡』文治二年四月八日条には、時政は平家に知られることを恐れ、政子を幽閉しましたが、頼朝に思いをはせる政子は、「暗夜に迷い」「深雨をしのぎ」ながら頼朝のもとに走ったと、政子自身に語らせる形で記されています。
政子の一途さ、強さを感じさせるエピソードとして知られていますが、この政子の行動は、中世の武家社会における女性・正妻の地位の高さを知ることができるエピソードでもあるのです。
現代の私たちからは想像しにくいのですが、中世武家の婚姻は、男性の思うままに「あっちへやり」「こっちへやり」というような、女性を「物」や「道具」のように扱うことは少なかったようです。意外と女性の意志が尊重され、結婚後は夫と妻、特に正妻との間には対等な関係が築かれていたようです。
1178年(治承二年)頃、長女大姫が誕生しましたが、1180年(治承四年)8月、頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵すると、政子は一時伊豆の走湯山に身を寄せます。
御台所
10月に南関東をほぼ制圧した頼朝が鎌倉に居を定めると、正式に御台所として迎えられました。その後、1182年(寿永元年)に長男頼家、1186年(文治二年)に次女三幡、1192年(建久三年)に次子実朝を生んで、二男二女の母となりました。
政子が頼家を懐妊しているとき、頼朝は亀前という女性を寵愛し、伏見広綱の屋敷にかくまっていましたが、無事頼家を出産した政子が、亀前のことを知ると烈火のごとく怒り、牧宗親に命じて亀前のいた伏見広綱の屋敷を襲撃、破壊させています。政子の気性の激しさを示すエピソードとして知られていますが、政子が頼朝の配下の御家人に対して大きな権限をもっていたことが読み取れる事件でもあります。
この間、『吾妻鏡』にみえる政子は、鎌倉幕府の行事のうち鶴岡八幡宮や勝長寿院などの寺社に夫頼朝と参詣する姿で散見しており、御台所としての役割を示しています。
1185年(文治元年)10月24日の勝長寿院(頼朝の父義朝を祀る)の落慶供養では、堂の左右の仮屋の左方に頼朝、右方に政子と一条能保妻(頼朝妹)が座していて、その様子は、居並ぶ御家人たちにとって感動的な光景だっだようです。
翌年4月8日、頼朝・政子夫妻が鶴岡八幡宮に参詣した際に、頼朝は義経の愛妾静御前に命じて舞を奉納させました。ところが、静御前が頼朝を讃えずに義経を慕って舞ったことに頼朝は激怒。そこで政子はかつて自分が頼朝の安否を心配したことなどを述べて、これをとりなしました。先ほど、「暗夜に迷い」「深雨をしのぎ」ながら頼朝のもとに走ったことを政子が語ったのはこのときです。
静御前は京都へ戻る前に政子と大姫の前で舞い、政子と大姫は静御前に多くの財宝を持たせたといわれています。政子の優しさを示すエピソードで、政子には弱きを助け、強きをくじく行動傾向がありました。
鎌倉幕府も安定期に入った1195年(建久六年)には、頼朝に従って上洛しました。頼朝とともに東大寺の大仏開眼法要に出席し、京都の諸寺を参拝しています。
この時、朝廷内に大きな影響力を及ぼしていた後白河法皇の寵姫丹後局(高階栄子:たかしなひでこ)と会見し、大姫の入内問題について話し合っています。しかし、大姫は、かつて許嫁であった木曽義仲の子義高が討たれて以来、心を患っていて、1197年(建久八年)に死去したことで入内は実現しませんでした。
尼御台
2代将軍源頼家
1199年(正治元年)1月、夫頼朝が急死し、政子は出家し尼となりました。法名は如実。妙観上人とも号しました。この時43歳。
二代将軍には長男頼家が就任します。これ以降、政子は様々な政治の場面に登場し、頼家を後見する姿が見られるようになります。
『吾妻鏡』によると、当時18歳の頼家には父頼朝ほどの器量はなく、専恣的な政治が行われることが多かったことから、御家人の人望も薄く、日々蹴鞠に明け暮れているというあり様でした。
三左衛門事件で頼家は失策を犯したことから、将軍頼家による訴訟の親裁は停止され、政子の父時政・弟義時を含む宿老13人による合議制が始まります。
また、頼家の外戚比企能員の勢力と対抗するため、父時政・弟義時と協力して幕府内における北条氏の地位向上と実権掌握にも努めました。政子らの処置に不満を募らせた頼家は、頼朝の乳母の家であり、また自身の妻の実家である比企氏との関係を強めていきます。
実家北条氏をめぐって政子と頼家の関係は悪化していきました。
1203年(建仁三年)頼家が重病に陥ると、父時政と謀って比企氏を挑発します。そして、頼家の所有する日本国総守護および地頭職について、6歳になる頼家の長子一幡には関東28ヶ国の地頭職と惣守護職を、弟の千幡(のちの実朝、この時12歳)には西国38ヶ国の地頭職を譲与することにしました。
この分割譲与という処遇に不満を持った比企能員は、病床の頼家に訴えて北条氏討伐の密議を行います。『吾妻鏡』は、政子がこの密議を聞き、父時政に通報したと記述しています。
時政は、仏事にかこつけて比企能員を名越の自邸に招いて殺害し、政子は義時らに一幡を奉じる比企一族を討つことを命じました。頼家の妻で能員の娘である若狭局と子一幡は、比企一族と運命をともにしました。頼家は、政子の判断により出家させられ、伊豆修善寺に幽閉され、翌年23歳で殺害されます。
三代将軍源実朝
三代将軍に実朝が就任すると、父時政を執権とし、政子は再び将軍後見として幕政に参画しました。しかし、1205年(元久二年)6月の「畠山重忠の乱」を発端として時政と義時・時房の間に亀裂が生じると、政子は義時・時房と結びます。
同年閏7月、時政の後妻牧方が、将軍実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようとした陰謀事件が発覚。政子は時政邸にいた実朝を義時邸に引き取りました。これを見た時政は出家し、翌日、時政は牧方とともに伊豆国北条へ下向しました。そして、政子は実朝の後見(執権)に弟義時を据えたのでした。
実朝は兄頼家とは異なり、政子や北条氏、他の御家人らと対立することはありませんでしたが、京都へのあこがれが強く、和歌や学問の他、朝廷から高官位を得ることに熱中しました。
後鳥羽上皇と懇意にしていた実朝の昇進スピードは速く、1218年(建保六年)12月には右大臣に任官しました(27歳)。そして、1219年(承久元年)1月、実朝は任右大臣の拝賀のために鶴岡八幡宮へ参詣したところ、頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当公暁に暗殺されました。
この前年、政子は熊野参詣を口実に上洛し、後鳥羽上皇の女房で当時の朝廷内の実力者であった卿二位藤原兼子と会談して、子供に恵まれない実朝の後継者に後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王を鎌倉へ迎える密約を交わしています。
この半年後、政子は従二位に叙されていますが、これは鎌倉との接近を図る卿二位のはからいと考えられています。以降、政子は「二位殿」あるいは「二位家」などと呼ばれるようになりました。ちなみに「政子」という諱はこの叙位に際し名づけられたと言われていて、それより前は何と呼ばれていたかはわからないのです。
尼将軍
実朝が暗殺されると、幕府はかねてからの約束通り親王将軍を迎えたい旨を朝廷に伝えましたが、後鳥羽上皇は態度を一変させて、これを拒絶しました。
幕府は代わりに、頼朝の妹を曾祖母にもつ左大臣九条道家の三男三寅(二歳。のちの頼経)を次期将軍として鎌倉に迎えます。
政子は、三寅に代わって政務を代行することになりました。後に、三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」第7条には、「一、右大将家(頼朝)以後、代々将軍ならびに二位殿(政子)の御時、充て給わるところの所領等」と、政子と将軍を同等の扱いをしており、実質的な将軍、つまり「尼将軍」として政務を行っていたことがわかります。
承久の乱
1221年(承久三年)5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を諸国に下し討幕活動を開始しました(承久の乱)。この時政子は、頼朝の後家として御家人たちの前で頼朝の恩義を説き、動揺する御家人たちを結束させたことは有名です。幕府軍は、東海道・東山道・北陸道から進軍し、上皇らの京方をわずか1ヶ月で撃破しました。
乱後は、仏事供養や将軍家内の仕事を中心として活動しながら、義時を全面的に支援して乱の戦後処理にあたっています。
執権政治の確立
1224年(元仁元年)義時が没しますが、義時の後妻伊賀方と伊賀光宗が、義時の五男で伊賀方の子政村を執権に、娘婿一条実雅を将軍につけようと画策しました。政子は陰謀をすぐに察知し、密かに伊賀氏に加担していた三浦義村の屋敷を訪れて説得して、陰謀を未然に防ぐことに成功します。
そして、執権には義時の長子泰時が就任し、義時の弟で泰時の叔父時房を連署として泰時を補佐役させ、執権政治体制が確立しました。執権政治の確立には、政子の尽力なくして成し得なかったのです。
1225年(嘉禄元年)7月11日、政子は69歳で生涯を閉じました。墓所は、はじめ勝長寿院御堂に築かれ、のち寿福寺と高野山に分骨されました。
参考文献
石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。
田端泰子『北条政子』人文書院。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。
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