北条氏による執権政治が確立したのは、北条泰時の時代と言われていますが、泰時の北条氏内部での求心力は弱いもので、政子のお膳立てがなければ執権になれないような立場にありました。
政子は、自身が没したあとの泰時の立場を案じて、弟の時房を連署に任命し、泰時を補佐させました。時房の補佐があったからこそ、泰時は執権として幕政を運営していくことができたのでした。
今回は、そんな時房の生涯を見てみましょう。
誕生から頼朝死去まで
北条時房は、北条時政の三男として、1175年(安元元年)に生まれました。母が誰なのかはっきりしていませんが、北条政子・義時と同母ではないか?と考えられています。そうであれば、伊東祐親の娘が母となります。
1189年(文治五年)4月に15歳で元服して時連と名乗りました(1202年(建仁二年)に「時房」に改名)。加冠役は三浦義連で、通称は北条五郎。のちに武蔵守に就任して武州と言われます。
1189年(文治五年)7月、源頼朝による奥州征伐に従軍し、これが時房の初陣となります。
1193年(建久四年)8月、由比浦での放生会および鶴岡八幡宮での流鏑馬射手をつとめ、1195年(建久六年)3月には源頼朝の2回目の上洛に供奉しました。頼朝時代の時房は無位無官で、もっぱら頼朝・政子夫妻の寺社参詣や幕府諸行事の随兵として供奉することが主要な任務だったようです。
頼家側近として
1199年(正治元年)1月に頼朝が没すると、後を継いだ頼家の側近となり、蹴鞠・狩猟の御供をとして近侍します。頼家は狩猟や蹴鞠などを通じて独自に近習を組織していて、時房以外に、比企宗員・比企時員・小笠原長経・北条時房・和田朝盛・中野能成・平知康・紀行景・源性・義印といった源家一門・比企・北条などの様々な出身者を近侍させていました。
頼家の側近メンバーの中で、時房の容姿や立ち振る舞いは抜群だったそうです。
1202年(建仁二年)6月、頼家の命によって時連から時房に改名しました。28歳の時でした。
1203年(建仁三年)9月に比企能員の乱が勃発し、頼家は将軍職を解かれ伊豆の修善寺に幽閉されます。翌1204年(元久元年)7月18日、北条時政の討手によって暗殺されました。
武蔵守時房
時房は、将軍実朝のもとで鎌倉寺社奉行の一員になり、将軍の寺社巡礼に供奉するとともに、12月には幕府営中奉行(御所奉行)を勤め徐々に幕政へ参画し始めます。
今まで無位無官だった時房は、1205年(元久二年)3月28日主殿権助、同年4月10日式部少丞に補任されました。
同年6月に畠山重忠の乱が勃発し、兄義時とともに幕府軍の大将として重忠の軍勢と戦いました。この戦いによって義兄弟の畠山重忠は滅亡しますが、重忠の死をめぐって時政と政子・義時・時房父子の間に亀裂が生じました。さらに翌7月19日、時政が将軍実朝を廃して、娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策した「牧氏の変」が起こり、時政は政子・義時によって幕府を追われることになります。
8月20日、父時政が出家すると同時に、従五位下遠江守に任じられます。さらに、9月には駿河守、1207年(承元元年)1月に武蔵守に叙任され、武蔵国の開発などを精力的に行っています。
源氏一門以外で、国司に任官したのは北条時政が初めてで、時政の国司任官は北条氏が一般御家人の上に立ち、源氏一門に準ずる家格を有したことを意味していました。特に、相模・武蔵は将軍家の永代知行国で、鎌倉幕府の最重要国です。その両国司に時房が任じられたことは、幕府内での時房の重要な地位にいたことをうかがい知ることができます。
1208年(承元二年)10月、尼御台政子に付き従い熊野に参詣し、京都へ赴きます。その頃に、将軍家の政所別当となり、実朝を補佐していたようです。
和田合戦
1213年(建保元年)5月、和田義盛の乱に際しては甥の泰時とともに若宮大路で義盛の軍勢と戦い、激闘を制しています。その勲功として上総国飯富荘を拝領しました。
1218年(建保六年)2月、故稲毛重成の孫娘と土御門通行との婚礼のため、尼御台政子とともに熊野山をまわり上洛しました。この上洛は、将軍実朝の後継者に後鳥羽上皇の皇子をいただくためで、政子と院の影の実力者卿二位藤原兼子と話が進められ、上皇の承諾を得ることに成功しています。
この時、時房は、子の時村とともに後鳥羽上皇の御前で蹴鞠を披露し、上皇に気に入られて院中に出仕するように求められています。
このような京都での経験が、のちに六波羅探題として活躍する基礎になりました。
承久の乱と六波羅探題
1219年(承久元年)1月、将軍実朝は右大臣就任拝賀のために、鶴岡八幡宮を参拝します。その帰りに、頼家の遺児公暁の襲撃によって殺害されました。
政子は、かねての約束通りに後鳥羽上皇の皇子の鎌倉下向を奏請しますが、皇子の下向を拒否されます。さらに、後鳥羽上皇は、寵愛の伊賀局亀菊の荘園である摂津国長江・倉橋両荘の地頭解任を幕府に要求しました。
上皇からの要求があって4日後には、幕府は拒否の態度を明らかにし、3月15日に時房は使者として1千騎の軍勢を引き連れて上洛しました。時房は軍事力を背景に、地頭職解任拒否と皇族将軍の下向を迫ったのでした。
幕府が上皇の要請を拒否した以上、上皇も幕府の皇族将軍奏請をのむはずがなく、7月19日に左大臣九条道家の子三寅(のちの藤原頼経)とともに鎌倉に帰着します。
1221年(承久三年)5月、後鳥羽上皇による北条義時追討命令が明るみになると、鎌倉方は総勢19万の大軍を東海道・東山道・北陸道の三手に分け、大将軍時房は北条泰時・足利義氏・三浦泰村・千葉胤綱ら他の大将軍とともに東海道より京都を目指して進軍します。
6月に瀬田・宇治などの合戦で京方を破り、泰時とともに六波羅館に入り、六波羅探題南方として1225年(嘉禄元年)までの4年間、乱後の処理・洛中警備などにあたりました。時房このとき47歳。
勲功として伊勢国守護並びに国内16箇所の所領を拝領しますが、1225年(嘉禄元年)7月に承久の乱の瀬田での戦いに勲功のあった橘公隆・本間忠貞らに4ヵ所を与えています。
初代連署として
1224年(元仁元年)6月、兄義時の死去にともない足利義氏とともに鎌倉に下向し、伊賀氏陰謀事件を尼御台政子とともに処理します。その後再び上洛し、1225年(嘉禄元年)6月まで、泰時・時房に替わって六波羅にいた泰時の子時氏と時房の子時盛の上に立って探題職を主導しました。
1225年(嘉禄元年)7月、尼将軍政子が没すると、連署(副執権)として泰時とともに幕政を執行すると同時に、12月には執権泰時・連署時房および評定衆による評定始めが行われ、執権・連署・評定衆による合議制の一翼を担いました。
1231年(寛喜三年)12月に正五位下、1234年(文暦元年)1月に従四位下に叙されて、1236年(嘉禎二年)3月修理権大夫を兼任。翌年1月に従四位上に叙されて、11月に相模守を辞しました。時房62歳。
1238年(歴仁元年)2月、将軍九条頼経の上洛に供奉し、閏2月正四位下に叙されます。
1239年(延応元年)4月、時房が酒宴を催しているさなか、泰時病の知らせにも酒宴を続け、見舞いの使者さえ遣わさなかったらしい。この行動を怪しんだ宿老が時房に問いただすと、「自分がこうして遊べるのは泰時がいるからできるわけで、泰時の病が深刻になったら自分は隠遁の道に入らざるを得ず、もう酒宴も開けない。これが最後の酒宴になるかもしれないから座をはずすわけにはいかないのだ」と答え、泰時に対して深い信頼を寄せていたことがうかがわれます。
1240年(仁治元年)1月24日、病のため死去しました。享年66歳。法名は称念で、大仏(おさらぎ)殿と称されました。
時房の領した守護職は伊勢国・武蔵国・丹波国・遠江国が知られ、特に遠江国はこののち時房の子孫のひとつ大仏(おさらぎ)流北条氏が相伝していきます。鎌倉後期になって大仏流は執権を輩出します。
なお、時房の邸宅については、1225年(嘉禄元年)7月に義時の旧宅で尼将軍の生前の居所だった義時大倉邸に移っており、1227年(安貞元年)2月には御所周辺の火災に際して類焼の危機にあったといいます。時房邸は延応元年4月には泰時の若宮小路小町邸の向い、若宮小路の西側か小町小路の東側にあったようです。
子に時盛・時村・資時・朝直・時直・時定。房快・忠源・劉禅ほか女子9人が知られています。
参考文献
石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。
田端泰子『北条政子』人文書院。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。
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