北条時政。鎌倉北条氏はこの人をもってスタートしていると言っても過言ではありません。鎌倉幕府の様々な職は北条氏によって独占されていきますが、いずれも時政の子孫たちです。
それでは、時政の系統ではない北条氏はどうしているのか?となると「わからない」です。北条氏の祖先は不明なのです。父親ですらはっきりしたことがわからないのです。従兄弟とも、弟とも、甥とも言われる北条時定のみが時政以外の系統として知られています。
北条時政が彗星のごとく日本の歴史に登場し、その後の子孫は鎌倉幕府ナンバー2として栄えて滅ぶという、不思議な一族なのです。
今回は、そんな鎌倉北条氏祖の時政について見ていきましょう。
不明点だらけの時政の前半生
1138年(保延四年)、父北条時家と母伴為房の娘の間に生まれます。父時家というのも諸説あり、時家は祖父であるとか、父は時方であるとか、時兼であるとか定まっていません。時家や時方が何をしていたのかも史料に残されていません。
日本人なら一度は聞いたことのある鎌倉時代の北条氏は、時政以前を正確にたどることができないのです。平氏の系統かどうかもわかりませんが、当時の御家人たちの間では平氏の流れと認識されていたようです。
時政の祖父あたりの時代に伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)に住んだことから、北条氏を称したのではないかと言われています。そして、伊豆国の役人をしていたという説もあるのですが、実際のところは不明です。時政の前半生についても不明な点が多いのです。
流人源頼朝の監視役の時政
1160年(永暦元年)3月、平治の乱(1159年)の翌年、田方郡蛭が小島(ひるがこじま:静岡県伊豆の国市)に流されてきた源頼朝の監視役を、伊豆国伊東荘(静岡県伊東市)の領主伊東祐親とともに命じられました。
1170年(嘉応二年)4月には、保元の乱(1156)に敗れて伊豆大島に配流されていた鎮西八郎源為朝征伐に加わっています。
1177~1178(治承元年~治承二年)頃、時政は京都大番役のために上京していましたが、その頃伊豆では源頼朝と北条政子との間に大姫(1178~1198)が生まれていました。このことが平家の耳に入ることを恐れた時政は、政子を当時の伊豆国目代であった山木兼隆に嫁がせようとします。それを聞いた政子は、熱海の走場山権現(静岡県熱海市)にいた頼朝のもとへ逃げたため、時政は結局二人の結婚を認めざるを得ませんでした。
治承・寿永の乱での時政
1180年(治承四年)5月、頼朝が平家追討を命ずる以仁王の令旨を受けたことにより、時政は頼朝とともに挙兵の計画を練ります。同年8月、頼朝とともに伊豆国目代山木兼隆を奇襲しこれを討ち取ります。その後、平家方の大庭景親・伊東祐親軍と相模国石橋山(静岡県小田原市)で戦いますが敗れ、嫡子宗時は討死します。頼朝より一足早く海路で安房国に渡って同地で合流します。
同年9月、時政は子義時とともに頼朝の使者として、甲斐国の武田氏のもとに遣わされます。同10月に甲斐源氏の軍勢とともに南下して、富士川の戦いで平家軍を破り、駿河国に進軍してきた頼朝軍と合流しました。これ以降、平家や木曽義仲との戦いでは常に源頼朝の傍で補佐し続けます。
1185年(文治元年)3月に平家が滅亡。同10月、源義経の奏請によって源頼朝の追討の宣旨が下ると、同年11月頼朝の名代として上洛します。時政の任務は京都進駐軍である鎌倉方の司令官であり、義経の追補、親義経派の後白河上皇の近臣の処分、義経に代わって京都の治安維持を担当する(京都守護)ことでした。
約1千騎の軍勢を率いて上洛した時政は、後白河法皇や近臣を威圧しつつ、院近臣を処断し、全国一律に田地一反ごとに5升の兵糧米を徴収することを認めさせます。
そして、全国に「守護・地頭」の設置を認めさせることに成功しました。ここに鎌倉政権が全国に影響力を及ぼす素地ができたのです。伊豆国の「正体不明」の武士である北条時政が後白河法皇と互角に交渉できる能力を保有していることは着目すべき点で、北条氏とはいったい何者なのか興味はつきません。
翌1186年(文治二年)の初めころ、後白河法皇から七か国の地頭職を拝領しましたが、すぐに辞退し鎌倉に下向しています。
京都の治安維持については、北条時政の従兄弟である北条時定をはじめとする35人の御家人を選んでこれにあたらせ、朝廷との交渉は頼朝の妹婿一条能保に引き継がれました。
※北条時定は、時政の系統ではない北条氏の中では唯一、詳しく史料で確認できる人物です。
この時政の行動は、義経同様に院政の中に時政を取り込もうとする後白河法皇の政治工作を避けて、頼朝に謀反の疑念をもたれないようにする配慮だったとみられています。
1189年(文治五年)6月、奥州藤原氏征伐を祈念して、伊豆国の北条の地に願成就院の建立を行い、同7月には奥州藤原氏を討伐するなために頼朝に従って奥州に下向しています。
1193年(建久四年)5月、頼朝の命により、駿河国の狩猟場を整備するために下向。これは、頼家が頼朝の正統な後継者であることを内外に示す「富士の巻狩り」の準備のためだったのですが、時政この役目を担ったのは、1185年(文治元年)以降、伊豆国・駿河国の守護職に就任していたからでした。
時政の政敵排除
1199年(正治元年)1月、源頼朝が没し、嫡男頼家が将軍家を継ぐと、時政は外祖父としてその影響力を徐々に行使し始めます。
先例を無視する頼家の行動は御家人の反発を招き、同4月、頼家は訴訟の直裁を停止され、時政を含めた幕府宿老による「13人の合議制」が開始されます。
1200年(正治二年)4月、時政は従五位下遠江守に叙任され、将軍外祖父としてだけではなく、幕府内での地位を固めていきます。従五位下は政所別当(長官)就任に必要な官位とされていました。この国司任官は、「門葉」とよばれる頼朝が認めた源氏一族しか任官できませんでした(足利氏や平賀氏など)。源氏以外で国司に任官したのは北条時政が初めてです。
時政は、将軍頼家と頼家の乳母父で外戚となっていた比企能員(頼家の妻は比企能員の娘)との対立を激化させていきます。
1203年(建仁三年)8月、頼家が病で危篤状態になったことに乗じて、時政は頼家の権力の分断をはかります。頼家の嫡男一幡に関東28か国の地頭職を、弟の千幡(のちの実朝)に西国38か国の地頭職を相続させることにしました。これを聞いた比企能員は激怒し、病床の頼家にこれを訴え、頼家は時政追討の命令を能員に下しました。
しかし、障子越しにこれを聞いた母北条政子は、直ちに時政に通報します。時政は機先を制して比企能員を自宅に呼び寄せ誅殺し、比企一族が籠もる一幡の屋敷に追討軍を派遣して、一幡ともに比企一族を滅亡に追いやります(比企能員の乱)。そして、頼家を出家させて伊豆国修善寺に幽閉しました。
頼家のあと、三代将軍は実朝が就任します。時政は将軍の外祖父、政所別当として幕府の実権を握りました。時政が執権になった瞬間です。これ以降、時政は単独で下文を発給して、御家人の所領を安堵してます。のちに北条義時が政所と侍所別当を兼ねるようになったことにより、執権は将軍に次ぐ最高職になります。
時政の没落
1204年(元久元年)、時政と後妻の牧方との間に生まれた娘の婿である武蔵守平賀朝雅を京都守護とし、時政は着々と京都と鎌倉に政治基盤を拡大しつつありました。
1201年(元久二年)6月、平賀朝雅の屋敷で催された宴会の席で、平賀朝雅と畠山重忠の子重保が口論を起こしました。周りにいた御家人の取りなしによってこの場はおさまりましたが、朝雅がこの件を母牧方に伝えると、これを聞いた牧方が時政に讒言します。時政は畠山義忠・重保に謀反の疑いありとして、軍勢を差し向けます。幕府軍と畠山勢は二俣川付近(神奈川県横浜市)で衝突するも、畠山重忠父子は討ち取られます(畠山重忠の乱)。
しかし、時政の子義時・時房は重忠に謀反の意志がなかったことを見抜いていました。義時は泣きながら父時政に抗議したと言われています。
同年7月、時政は牧方と謀って実朝を排除して娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとします。畠山重忠誅殺に引き続き、将軍実朝も排除しようと企む時政を、北条政子・義時兄弟は出家させ、鎌倉から追放してしまいます。時政は伊豆国北条の地に隠遁し、その後は政治の表舞台から姿を消します。
1207年(承元元年)11月、願成就院の南側に塔婆を建立し供養を行っています。そして、1215年(建保三年)1月6日、日ごろから患っていた腫れ物が悪化し没しました。享年78歳。
1227年(安貞元年)1月、牧方は京都で時政の13回忌供養を行っています。
北条氏が歴史の表舞台に出る立役者の時政ですが、その晩年は静かなものだったようです。
時政の子供たち
北条義時(得宗家)
北条時房(極楽寺流)
北条政範
北条政子(源頼朝妻)
北条時子(足利義兼妻)
他女子(畠山重忠・阿野全成・平賀朝雅・稲毛重成・三条実宣・坊門忠清・河野通信・大岡時親妻)
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