鎌倉幕府2代執権北条義時。
戦前の教科書では「朝廷に弓を引き、3人の上皇を島流しにしてしまう悪逆非道の男」として結構有名な御仁だったそうです。
さらには、源氏将軍を亡き者にし、次々と策謀を張り巡らして政敵を倒し、執権の座を確かなものとしていった「汚い男」というレッテルが貼られていたそうで、現代もそのイメージが強い御仁です。
しかし、足利尊氏が発した建武式目には、
「近くは義時・泰時父子の行状をもって、近代の師となし(義時・泰時父子のおこないをもって、今の時代の先生としよう)」
と記されています。
義時・泰時の政治は、創立まもない室町幕府の理想とされたのです。当サイトで、室町幕府は鎌倉幕府を再現しようとした幕府と度々主張するのもこの辺りに理由があります。
(まぁ、足利尊氏も朝敵扱いされていましたから、朝敵が朝敵を模範にするのはなんとかなんとか叩かれそうですが…)
その北条義時は、北条氏の嫡流ではなかった可能性があることはご存知でしょうか?
2代執権になるくらいですから、北条時政の嫡男として育ったイメージが強いのですが、義時の家督相続は簡単なものではなかったようです。
北条氏の嫡男は義時ではなかった
北条義時は、鎌倉幕府2代執権として歴史の教科書に登場します。
しかし、前途洋々な立場にはなかったようです。
北条時政の次男で、兄には北条宗時がいました。しかし、宗時は石橋山の戦いで討ち死にします。
石橋山の戦いといえば、1180年(治承四年)に頼朝が挙兵し、伊豆国目代(国司の代官)山木兼隆を討ち取ったあと、平家方の大庭景親らの軍勢に大敗を喫した戦いです。
頼朝らは命からがら海を経て房総半島に渡り、そこで体制を整えて鎌倉に入るきっかけとなりました。
長男宗時が亡くなれば、次男である義時が跡継ぎになりそうですがそうではなかったようです。
時政の後継者は義時ではなく、他に2人がいたのです。その2人を紹介する前に、義時の扱いについてご紹介しましょう。
鎌倉幕府について詳しく記した「吾妻鏡(あづまかがみ)」では、北条義時を江間義時、北条泰時を江間泰時と記しており、泰時にいたっては一度も「北条泰時」とは記されていません。
それでは、江間氏とはなんぞや?という訳ですが、江間は北条氏の館がある伊豆国田方郡北条を流れる狩野川の対岸の地名です。
北条本家が住まう北条に住まずに、対岸の江間に住んでいたことから江間氏を名乗ったと考えられます。つまり分家扱いだったことが読み取れるのです。
それでは宗時死後、北条氏嫡流を継ぐ予定になった2人を見ていきましょう。
北条政範
北条政範です。1189年(文治五年)に、北条時政と後妻の牧方の間に生まれました。
義時からすれば異母弟になる「政範(まさのり)」が北条氏を継ぐ予定だった可能性が指摘されています。
時政の後妻の牧氏は、平清盛の継母で、平時の乱ののちに頼朝の助命を清盛に訴えたことで有名な池禅尼の実家。池禅尼は、後妻牧方の叔母にあたります。
北条時政が清盛に接近するために後妻にしたのでは??と考えることもできるのですが、「愚管抄」によれば、牧方を後妻にしたのは頼朝の挙兵後ですので、それはないようです。
また、その年齢差は現代の親子くらい差があるとのこと(時政は43歳)ですから、若い嫁さんをもらって、その間に生まれた子がメチャクチャ可愛くて仕方がなかったので政範に北条氏を継がせようとしたと考えられています。
政範は、16歳で官位に叙され、破格の待遇を受けて朝廷デビューを果たしましたが、その年に病死してしまいます。
北条(名越)朝時
政範死後、次こそ次男義時かといえばそうではなく、義時の次男で朝時。名越流北条氏の祖です。
なぜ、父親の義時を飛び越えて朝時なのか??
義時にも前妻と後妻がいて、前妻の御所女房阿波局(ごしょにょうぼあわのつぼね)との間には、泰時が生まれていました。阿波局が亡くなりますと、後妻として比企朝宗(ひきともむね)の娘を娶ります。
比企(ひき)氏といえば、頼朝の乳母「比企尼」の実家で、頼朝が伊豆に配流されてからも常に世話をしてきた家柄です。頼朝にとって、一番恩を感じていた一族かもしれません。
さらに、比企尼の養子の比企能員(よしかず)の娘は、源頼家の正室になりましたので、比企氏の勢力は絶大なものになりました。
そんな比企氏の血をひく北条朝時は名越流(名越氏)の祖と言われますが、義時や泰時の江間氏とは意味合いが違います。
どういうことかというと、名越は鎌倉の北条時政の屋敷があった地名です。つまり、鎌倉における北条氏の拠点です。名越の名前の重要性がご理解いただけると思います。江間とは違います。
時政は、絶大な勢力を誇る比企氏の血をひく朝時を北条氏嫡男にすることで、北条の地位を高めようとしたのかもしれませんね。
ところが、その比企氏…。
頼家が病に倒れると、北条時政の謀略にはまり滅ぼされてしまいます。
名だたる御家人が比企氏攻撃に参加しているので、他の御家人からも憎まれていたのでしょうか?少なくとも、この時点では比企氏より北条氏の方が人気があったのでしょう。
私はそんな気がします。
比企氏の守護国は能登、越中、越後の三カ国におよんでいましたが、北条朝時がそれを引きついでいます。比企氏の血をひく朝時が北陸三国の守護になるのは当然という理屈も武者の世では成り立つのでしょう。
それにしても、時政の朝時への愛着が強すぎるせいで、義時・朝時父子の関係は悪くなります。それが原因でしょうか?長年にわたって、名越流は「義時・泰時」を始祖とする得宗家に反抗し続けました。
名越流こそが北条本家で、分家の江間(得宗)ごときに頭を下げられるか??という思いがあったのではないかと推測されています。
むすび
2代執権義時。以上見てきたように北条氏を継ぐ立場になかった可能性があります。この時期の義時のエピソードは、鎌倉幕府を詳しく記した吾妻鏡にほとんど載っていません。源頼朝の義弟で、北条時政の息子であるにも関わらずです。
源平合戦での武功や旧平家領地での行政において何かをした記録は残っていません。奥州藤原氏討伐でも同じなのです。
源頼朝の義弟でありながら、活躍らしい活躍のない義時。
この時期の義時は、頼朝親衛隊ともいうべき「家子」の隊長「専一」だったということだけが伝わっています。
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