足利尊氏・直義兄弟によって制定された『建武式目』には、「義時泰時父子の行状を以て近代の師となし」と記され、足利兄弟は北条義時・泰時父子が行った執権政治を理想に掲げました。室町幕府は、成立当初から鎌倉幕府の後継を意識した政権だったのです。そして、義時・泰時時代こそが鎌倉幕府の見ならう時代だったと考えられていたのです。
そんな北条義時はどんな生涯をおくったのでしょうか?じっくり見ていきましょう。
頼朝時代
誕生から頼朝挙兵まで
1163(長寛元年)、父北条時政と母伊東祐親の娘の間に生まれました。兄宗時・姉政子・弟時房らがいて、姉政子と弟時房は同母兄弟と言われています。通称は江間四郎で、当初は北条氏の嫡男ではありませんでした。
1180年(治承四年)に兄宗時が討たれると、義時が嫡男になるはずでしたが、父時政は溺愛する後妻牧の方の間に生まれた政範を嫡子にします。政範は早世しましたが、それでも時政は義時を嫡男にしようとせず、義時の子朝時を嫡子にしようとしていました。これが北条氏の禍根として長く残り、執権交代のたびに北条氏はお家騒動を引き起こすことになります。
したがって、義時は、1204年(元久元年)に父時政から北条氏の家督を奪うまでは、江間氏(分家)の当主だったのです。
1180年(治承四年)5月、頼朝が平家追討を命じる以仁王の令旨を受け取ると、同年8月17日に頼朝の挙兵に従って伊豆国目代(国司の代理)山木兼隆を襲撃しました。
8月23日と24日両日に、平家方の大庭景親の軍勢と相模国石橋山(神奈川県小田原市)で戦いますが、頼朝軍は大敗。義時は父時政と共に頼朝と別れ、箱根湯坂街道を甲斐国方面に向かいます。別途相模国に向かった兄宗時は早川付近で伊東祐親勢に討たれました。
同27日時政・義時父子らは伊豆国土肥郷から頼朝より一足早く海路で安房国に渡り、そこで合流しました。
同年10月、頼朝は鎌倉に入り、12月12日に将軍邸移徒の儀が行われますが、時政・義時父子も供奉しています。
家子専一として
1181年(養和元年)4月7日、義時は頼朝の寝所近辺を警護する11人の武士の1人に選ばれました。この頼朝の親衛隊ともいえる11人は「家子」と呼ばれ、源氏一門の門葉と一般御家人の間に位置づけられました。
さらに義時は、文武に優れていたことから「家子専一(家子の中で一番優れた者)」と頼朝に称されます。19歳のことでした。
義時は、この頃からすでに相模国の三浦義澄・和田義茂・梶原景季、下総の千葉胤正・葛西清重・下河辺行平・結城朝光ら超有力御家人の子息とともに、頼朝の最も信頼する御家人の1人になっていたのです。
1182年(寿永元年)11月、頼朝は側室亀の前を伏見広綱邸に置いて寵愛していました。このことを継母の牧方から知らされた北条政子は激怒して、牧方の父牧宗親に命じて伏見広綱邸を破壊するという事件を起こします。それを聞いた頼朝も激怒して、牧宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻(もとどり: マゲのようなもの)を切って辱めました。
岳父牧宗親が頼朝に辱めを受けたと聞いた父時政は伊豆に下向しますが、義時はこれに従わなかったことから、「将来、頼朝の子孫の護りとなるであろう」と褒められたと言われています。
1184年(元暦元年)8月、平家追討のため源範頼に従って九州に赴き、1185年(文治元年)1月26日、豊後国で平家方を破り、葦屋浦で平家家人の原田種直父子を破りました。頼朝はこれらの戦功に対して自ら書状を送っています。
鎌倉に戻った時期は明かではありませんが、1185年(文治元年)10月24日に行われた勝長寿院供養に先陣の随兵として参加しています。
1188年(文治四年)7月10日、万寿(のちの頼家)の御着甲始めが行われた際は、頼朝の傍に仕えて、翌1189年(文治五年)6月10日の鶴岡八幡宮の塔供養にも先陣の随兵として供奉しています。
同7月19日、頼朝は奥州藤原泰衡を討つために鎌倉を出発しましたが、時政・義時父子も従いました。しかし、戦場での活躍を示す記事は「吾妻鏡」には見えません。
おそらく、平家追討から戻った義時は頼朝のお気に入りとして常に近くにいたのでしょう。
1190年(建久元年)11月の頼朝の上洛に供奉し、六条若宮や石清水八幡宮参詣、後白河院御所への参内に従っています。1191年(建久二年)2月の走湯山・箱根山の二所権現と三嶋社へ参詣する「二所参詣」には時政と共に供奉し、同11月21日の鶴岡八幡宮遷宮の儀には頼朝の御剣を持って傍らで侍っています。
1192年(建久三年)5月に、義時の嫡子金剛(のちの泰時)が歩いていたところ、多賀重行が馬に乗りながらその前を通過したため、所領を没収される事件が起こりました。この時、頼朝は重行に「金剛はお主ら傍輩に準じることはできない」と戒めたといいます。幕府における義時の位置づけを想定させるエピソードです。泰時は(建久五年)2月に元服しますが、烏帽子親は頼朝が勤めています。
1192年(建久三年)8月9日に実朝が誕生すると、義時以下6人が護刀を献上しています。同9月25日には、頼朝の計らいで、比企朝宗の娘姫前(幕府の女官)を妻に迎えました。この姫前との間に生まれたのが朝時で、名越氏の祖となります。この名越氏こそ、得宗家と対立して北条氏の家督争いを繰り広げることになります。
1193年(建久四年)始め、病により伊豆で養生していましたが、3月12日には鎌倉に戻り、頼朝の主催する下野国那須や信濃国三原で行われた狩りに参加し、5月に行われた富士野藍沢の狩(頼家の鹿狩や曾我兄弟仇討事件で有名な富士の巻狩のこと)として有名にも参加しています。
1195年(建久六年)2月、源頼朝は東大寺供養に参列するため上洛しました。義時も従って上洛し、御所参内や石清水八幡宮・四天王寺参詣にも従っています。
頼家の時代
1199年(正治元年)1月、源頼朝が没し、子の頼家が継ぐと、父時政は将軍の祖父として影響力を増します。先例を無視する頼家の行動は御家人の反発を招き、4月には時政・義時を含めた幕府宿老13人による合議制が実行されました。このとき義時37歳。
義時は将軍頼家の覚えもよく、鶴岡八幡宮や伊豆国三嶋社等への奉幣使を勤め、蹴鞠会の判定役も勤めています。
一方で頼家の弟千幡(のちの実朝)にも仕え、1203年(建仁三年)2月4日には鶴岡八幡宮参詣の扶持を行っています。
同年9月に起きた比企氏の乱では、子の泰時以下の御家人とともに頼家の子一幡の籠もる小御所を攻撃して、比企一族を滅亡させました。この後、義時は比企能員が守護であった信濃国と島津忠久が守護であった大隅両国の守護を与えられています。
同年11月15日、鎌倉の寺社奉行が定められたとき、義時は和田義盛とともに鶴岡八幡宮を担当しています。義時は将軍実朝になっても、将軍の寺社参詣の供奉や鶴岡八幡宮・二所・伊豆国三嶋社等への奉幣使を勤め、自邸に実時を迎えるなど、側近として奉公しています。
実朝の時代
1204年(元久元年)3月6日、相模守となり、同日叙爵します。
父時政を追放
翌年6月、畠山重忠が滅亡しました。この事件は、父時政の後妻牧方の讒言によるもので、義時は弟時房とともに父を諫めました。最終的には時政の指示に従って重忠を討ちますが、やはり、讒言であったことを報告しています。
同閏7月19日には牧方の陰謀が露見し、将軍実朝は時政邸から義時邸に移され、父時政は出家します。翌20日父時政は伊豆国北条に下向、代わって義時が執権になりました。駿河国・伊豆国などの守護も引き継いだと考えられます。
うまくいかない義時の政治
同8月、宇都宮頼綱の謀反が発覚しますが、姉政子を中心に大江広元・安達景盛と協議し、穏便にこれを抑えます。当初は、義時は強硬策に打ってでようとしましたが、他の御家人の反対を受けて、穏便に済ませたのが実態のようです。
以降の幕府政治は、義時を中心に弟時房・大江広元・三善善信・伊賀朝光らによって運営されました。
1207年(承元元年)1月5日、従五位上に叙されました。義時、このとき45歳。
1209年(承元三年)11月14日、義時は伊豆国の住人で年来の義時の郎従を御家人(侍)に準じる待遇を与えるように将軍実朝に申請しました。これは、義時が他の御家人と一線を隔する存在であることを示す目的があったと考えられています。
しかし、姉政子や大江広元らの意見により、実朝はこれを将来幕府を危うくする要因となりうる原因になると判断して許可しませんでした。同20日には、諸国守護の職務怠慢を理由に、守護の交代制が議論され、各守護に補任の下文の提出を求めています。これも、御家人の反対にあい実現しませんでした。
この時期の義時は、執権の権力を示そうとして、結局は失敗に終わっています。
1213年(建保元年)2月27日、正五位下に叙されました。義時51歳。
和田合戦と執権政治の確立
この年の2月、千葉成胤が差し出した僧侶安念の白状から、信濃国泉親衡の陰謀が明らかになります。その計画に和田義盛の子義直・義重と甥胤長が加わっていたため、義時は絶好の機会と捉え、さかんに和田氏への挑発を始めました。その挑発にのった和田一族は、5月2日に挙兵におよび、幕府や義時邸を襲撃します。義時は一時窮地に陥りますが、三浦義村の内応もあり、2日間の激戦の末、義盛は討ち死にし、一族は滅亡しました。
この結果、義時は義盛が就いていた侍所別当の地位を手に入れます。義時は益々幕府の中での独裁的な権力を確固たるものにしました。以降北条氏は、政所別当と侍所別当を兼務しながら幕政を主導していくことになます。そして、この立場こそが鎌倉幕府における執権です。
1215年(建保三年)1月8日、父時政が伊豆国北条で没し、9月14日には義兄弟の伊賀朝光が没するなど、近親者の不幸が相次ぎました。12月15日、義時は自らの願いで建立した願成就院南御堂の供養を行っています。
1216年(建保四年)1月13日、従四位下に叙され、(建保五年)1月28日右京権大夫に、そして12月12日陸奥守を兼任します。義時55歳。
父時政の官位を超え、名実ともに幕府の実力者となったのです。
1218年(建保六年)7月22日、侍所の職員を定め、子の泰時を別当にし、二階堂行村・三浦義村を率いて御家人の事を奉行させ、大江能範には将軍の御出以下の御所中の雑事を、伊賀光宗に将軍供奉の御家人に関することを担当させます。頼朝亡きあとの新たな幕府政治は、ようやく軌道に乗り始めたのです。
ところが、1219年(承久元年)1月27日、鶴岡八幡宮の社頭で、源頼家の遺児鶴岡八幡宮別当公暁による将軍実朝暗殺事件がおきます。
このとき実朝は右大臣拝賀の儀のため参宮していましたが、義時もこれに供奉し、実朝の御剣役を勤める予定でした。しかし、急に体調不良を訴え、その役を源仲章に譲り、鎌倉小町の自邸に戻っていたため、この災いを逃れることができました。公暁は三浦義村邸に向かう途中で長尾定景によって斬られます。こうした「吾妻鏡」の叙述から、義時が事前にこの暗殺計画を知っていたとする憶測も生まれ、三浦氏陰謀説や義時陰謀説などがありますが、真相は闇の中です。
実朝の死去によって源氏の正統は絶えることとなり、将軍の地位を巡る争いが生じることとなりました。
1219年(承久元年)2月11日、駿河国安野郡で宣旨を賜り東国を管領しようとして挙兵におよんだ阿野時元もその1人で、19日北条政子の命により執権北条義時は金窪行親以下の御家人を派遣、22日阿野勢は敗北し、時元は自害しています。1220年(承久二年)4月には、京都で源頼家の遺児禅暁を殺害しています。
これより先、実朝後の将軍を皇族出身者とすべく、1218年(建保六年)2月、熊野詣を口実に姉政子は弟時房とともに上洛におよび、後鳥羽上皇の乳母でその権勢並ぶ者なしと言われた藤原兼子と会談を重ね、冷泉宮頼仁親王を候補者として決定していました。
義時は実朝没後もこの実現に向けて動きましたが、後鳥羽上皇の同意が得られず、源頼朝の血をひく九条道家の子三寅(当時2歳、のちの頼経)に決定します。これ以降、三寅が幼少の間は政子が後見となり、義時が執権として政治を執り行う体制が整えられました。
承久の乱
皇族から将軍を擁立できなかったことを発端にして、朝幕関係は緊張の度を深めていきます。
義時は伊賀光季を京都守護として上洛させ、京都中の治安維持と朝廷の監視にあたらせ、さらに大江親広も上洛させます。
しかし、後鳥羽上皇を中心に討幕計画が進められ、1221年(承久三年)5月、畿内近辺の武士や僧侶が召集され、伊賀光宗を攻撃して自害に追い込みます。そして、北条義時追討の宣旨が全国に発せられました。
義時は御家人の動向を懸念しましたが、三浦義村以下の御家人が幕府に忠誠を誓い、一致団結してこの難局に対処したのでした。
義時は嫡男泰時・二男朝時、弟の時房を大将軍とする19万人の大軍を、東海道・東山道・北陸道から上洛させました。
5月11日に鎌倉を発った鎌倉方は、各地で京方を破り、6月15日には入京して京都を制圧しました。
義時は、後鳥羽上皇方の首謀者の処断を指示し、仲恭天皇を廃して後堀河天皇を即位させ、後高倉院による院政を始めさせました。後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は、それぞれ隠岐・佐渡・土佐(のちに阿波に変更)に配流されたました。
また、京方についた公家・武士等の所領三千余箇所を没収し、勲功のあった武士に新恩地として与えています。
この結果、義時の主導する鎌倉幕府が、京都の公家政権に対して優位に立ち、これを監督・支配する状況が生まれました。京都には、大将軍として入洛した泰時・時房を留め朝廷を監視させるとともに、畿内や西国を統括する幕府の出先機関である六波羅探題を設置し、泰時・時房をその初代としました。
晩年
1222年(貞応元年)8月16日、陸奥守を辞任し、同10月16日右京権大夫を辞任しました。義時60歳。
承久の乱後、幕府の勢力は西国にも延び、新たに地頭に補任された東国の武士と現地での争いも多く、義時はそうした訴訟に忙殺されています。一方、幕府の安定と三寅の下向で鎌倉には京都の文化が移植されつつあり、1224年(元仁元年)6月12日病が重くなり、翌13日出家、午前10時ごろ死去しました。享年62歳。
葬儀は同18日に行われ、源頼朝法華堂の東の山上に葬られました。嫡子泰時は急遽京都から戻り、執権の職務を継ぐことになります。
義時の保有した守護国は、信濃・駿河・伊豆・大隅・若狭・越後があります。これらの守護国は、得宗守護国として鎌倉幕府滅亡まで維持され、滅亡後も北条氏の残党が建武政権や足利氏に抵抗する拠点となります。
また、子に泰時・朝時のほか、重時・政村・実泰・有時・時経・尚村がおり、執権北条一族の庶子として幕府内でその影響力を発揮していきます。
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