1333年(元弘三年)5月に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が帰京すると天皇による親政(建武の新政)が始まります。
この親政は、1336年(建武三年)10月に終焉しますが、その間平和だったわけではありません。実際、1335年(建武二年)8月に足利尊氏が政権から離脱して以降、南北朝時代の前哨戦ともいうべき内乱状態に陥ります。
それでは、尊氏離脱以前は平和だったのか?というと全くそうではなく、地方では常に反乱がおこっていたのです。
いったい何の反乱なのか見ていきましょう。
地方の反乱
奥州北部の反乱
1333年(元弘三年)年12月から1335年(建武二年)1月の約1年にわたり、北条時如(ときゆき)・安達高景・工藤・曽我・高橋らの北条氏残党と、乙辺地・野辺・恵蘇などのこの地方の豪族が陸奥国糖部郡持寄城に籠もり反乱を起こします。北条時如は、名越流北条氏で、妻は金沢流北条顕時の娘です。
南関東の反乱
1334年(建武元年)3月、北条譜代の臣で武蔵に勢力をはる渋谷・本間らが高時の一族を奉じて、極楽寺口から鎌倉に侵入しましたが、足利一門の渋川義季がこれを撃退します。同年8月、武蔵の豪族江戸・葛西らが蜂起しています。
渋谷・本間らの鎌倉襲撃の報せが京都に入ると、親政側は拘禁していた北条治時・高直・貞宗ら15人を京都阿弥陀峯で処刑します。
北条治時は、北条随時の子(宗時の子とも)で、5代執権時頼のひ孫にあたります。1332年(元弘二年)に畿内で蜂起した護良親王・楠木正成討伐のために、一族・外様の諸氏とともに上洛。翌年1月、赤坂城攻めの大将として京都を出撃しました。楠木勢の頑強な抵抗に苦戦を強いられましたが、城内の水を絶ちこれを陥落させます。
六波羅探題が滅亡すると、治時・高直・貞宗らは金剛山から奈良に撤退。足利尊氏の呼びかけに応じて武装解除し、般若寺で出家し降伏します。その後、後醍醐側に捕らわれの身となっていたのでした。
北九州の反乱
1334年(建武元年)1月、肥後の旧守護の規矩(きく)流北条高政、豊前の旧守護の糸田流北条貞義が呼応して筑前・筑後で挙兵します。この反乱は長門・伊予に広がりを見せる大きな反乱となりました。建武政権は北九州の武士を動員して、7月にこれを鎮圧。この反乱は、規矩・糸田の乱と呼ばれます。
規矩高政は、最後の鎮西探題で、最後の執権赤橋流北条守時の弟である赤橋英時の猶子(相続権をもたない養子)でした。1333年(元弘三年)3月の博多合戦のあと、菊池氏の鞍岡城を攻略し、菊池氏・阿蘇大宮司の残党を掃討しています。
鎮西探題滅亡は行方をくらましていましたが、糸田貞義ら北条氏残党を糾合することに成功し、大規模な反乱を起こします。高政はこの反乱が鎮圧された時に没し、糸田貞義も豊前国三池郡堀口城で討死します。
日向の反乱
1334年(建武元年)7月ごろ、同国島津荘内で北条氏一族の遠江掃部助三郎・同四郎兄弟および平良執行・球仁郷弁済使・梅北郷弁済使・串良郷弁済使・霧島大宮司・球仁郷源太らの豪族が一斉蜂起。
この荘は、鎌倉幕府最後の執権北条守時の旧領で、後醍醐天皇が足利尊氏に与えていました。球仁郷源太は守時の遺臣と伝わります。なお、弁済使はもと地方官の一種ですが、世襲されてこの辺りの豪族の家名のようになっていました。
越後の反乱
1334年(建武元年)7月ごろ、越後北部の豪族だった小泉持長・大河将長らが挙兵。守護の新田氏がこれを討伐します。
紀伊の反乱
1334年(建武元年)10月、六十谷定尚なる者が、北条高時の甥で興福寺の佐々目僧正何某を担いで、飯盛城に籠もります。尊氏の一族斯波高経と楠木正成らが討手の大将となり、紀伊・和泉・河内・伊賀諸国の兵をもって包囲。1335年1月末にようやく首領定尚を討ち取ります。まもなく城も陥落。
信濃の反乱
1335年(建武二年)の春には信濃でも反乱が起こりました。この信濃の反乱はやがて建武新政を瓦解に導く「中先代の乱」に発展します。
反乱の特徴
建武の新政は、中央では政治の混乱や勢力争いが激化していましたが、地方では全国のいたるところで反乱が勃発していました。
これらの反乱には、いくつかの共通点があります。
第1に、反乱はほとんどすべて北条氏が守護職を持っていた国(日向・越後・紀伊・越後・信濃)、もしくは北条氏の旧領(陸奥)で発生しています。
第2に、ほとんどの場合、反乱軍には北条氏の一族・家人が参加しています。彼らは、北条一門としてその国に地頭職をもち、あるいはそれらの一門に仕えて所領の経営に当たってきたのですが、1333年(元弘三年)に鎌倉幕府が滅亡して以来、朝敵与党の烙印をおされて所領を失っていました。
第3に、奥州では建武政権に忠誠を誓って、所領までも与えていたにも関わらず、北条氏残党に寝返って反乱に加わる者があり、また他国から逃げ込んだ北条の落武者もあったといいます。「街道の警備を厳しくして落武者を捕らえよ」という指令が国府から出されています。
第4に、北条氏の一族・家人のほかに、その地方土着の豪族が参加しています(奥州・紀伊・日向)。奥州着任早々、反乱鎮圧の指揮をとった北畠顕家が、のちに「三年間諸国の租税を免じて、土木をやめ、ぜいたくを断てば、逆境の反徒はおのずから帰服するだろう」と後醍醐天皇に諫奏しているように、地方の豪族が北条残党側に加わった主な原因は、「二十分の一税」という重税に反発したからでした。
第4に、中央の政治情勢が地方に波及していることです。
奥州の豪族安東一族は反乱には加担しませんでしたが、その動きは非常に複雑です。安東家季は、尊氏が後醍醐から賜った外浜を占拠ました。足利方が立ち退きを求めると、国府すなわち北畠から預かったのだと抗弁し、一方、北畠に対しては、足利方から預かったと告げて、北畠と足利の対立関係を巧みに利用しました。
紀州飯盛城の反乱は、「͡飯盛城に籠もる兵が強すぎて、楠木ですら簡単に攻め落とせない。朝廷の心配事は紀州の反乱(意訳)」と言われるくらい手を焼いていました。
その討伐軍は内部で分裂していました。紀伊の豪族湯浅宗元が尊氏の武将の斯波高経に属したのに対して、湯浅氏と敵対関係にあった高野山の衆徒は楠木正成に属しました。後醍醐天皇の信任厚い楠木正成と、後醍醐天皇との関係が微妙な足利尊氏の関係が、飯盛城討伐軍にも知れわたっていたのです。
第5に、陸奥の北部や日向の島津荘など、北条氏の旧領で足利尊氏に与えられた地域で反乱が発生しています。
おそらく、北条氏残党の中では「足利尊氏こそ北条に対する最大の裏切り者」という認識があったのでしょう。本間・渋谷らが鎌倉を襲ったのも足利氏に対する復讐だったと言えます。のちに、北条氏残党は敵であるはずの南朝に属し、北朝の足利勢に徹底抗戦することからも、「足利への恨み」は相当なものだったのです。
むすび
建武政権に不満を募らせる武士たちは足利尊氏に期待を寄せていきますが、北条氏残党はその尊氏への復讐と北条氏再興のために反乱を各地で引き起こしていたのでした。
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