1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。
とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、まだまだ弱いものでした。泰時は惣領として北条氏内での地位向上と執権北条氏を中心とした幕府政治の安定化に乗り出します。
まず、泰時は北条氏の所領を管理する公文所を設置し経済力支配をはかり、次に、「家法」を制定して、北条一族と被官(家来)に対する統制を強化していきました。
広元・政子の死
1225年(嘉禄元年)6月10日、幕府草創以来、官僚の筆頭として、幕府の宿老として重きをなしてきた大江広元が没しました。享年78歳。
その数日後、尼将軍政子が意識不明に陥りました。その後、意識を取り戻したというものの・・・。
1225年(嘉禄元年)7月11日、政子は69歳の生涯を閉じます。将軍の妻として母として、執権の娘・兄弟・叔母として生きた彼女に合掌。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
1225年は、初期鎌倉幕府で大きな役割を果たした大江広元・北条政子があいついで世を去った年になりました。
伊賀氏の変の後、泰時が無事に執権に就いたのを見届けた叔父の北条時房は、六波羅探題として京に戻っていましたが、姉政子の死に間に合いませんでした。鎌倉に入った時房は、日ごろ政子が居住していた義時の旧邸に移り住みます。
8月27日、政子の葬儀が行われ、伊賀氏の変で流罪となっていた伊賀朝光・光重兄弟らが赦免されます。
後ろ盾となっていた広元・政子を失った泰時が、幕府の中心となって政治を運営していくことになったのです。泰時は幕政を担うことの使命感を強く感じていたようで、明法道(法律学)の勉強にいそしみ施政の助けとしていたことが知られています。ここで学んだ知識が、「御成敗式目」の制定に役立ちます。
泰時の幕府改革
泰時は、三浦義村・二階堂行村を御所に呼び寄せ、今後の幕府運営に対する協力と助言を求めました。義村は、和田義盛亡き後、有力御家人の筆頭格で、行村は政所執事行盛の叔父で、事務官僚の重鎮でした。泰時は、この二人をブレーンとしたのです。
泰時は、叔父時房とともに幕府の移転を計画します。
1225年(嘉禄元年)12月20日、宇都宮辻子に完成した新御所に鎌倉殿三寅(のちの4代将軍藤原頼経)を迎えて人心の一新をはかりました。
同日、泰時はさらに新御所において、鎌倉大番役の制を定めます。これは、遠江国以東15か国の御家人に、その所領の広さに応じて将軍御所の警護を命じるもので、京都大番役の鎌倉版といえるものです。
この番役制は、泰時・時房・中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・町野康俊・二階堂行盛・矢野倫重・後藤基綱・太田康連・佐藤業時・斎藤長定の13名によって、新御所で評議された最初のものでした。
泰時・時房を除く11名が、評定衆といわれ、幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてをつかさどりました。そして、執権が評定衆の長をつとめることになります。
泰時は、合議制をとることによって、幕府宿老・有力御家人・文士の協力を取りつけ、執権を中心とする幕府政治への移行に成功したのです。
ところで、この評定衆のメンバーですが、二階堂行盛は政所執事であり、行村はその叔父。町野康俊は三善善信の子息にして問注所執事であり、太田康連はその弟、矢野倫重は甥にあたります。中原師員・佐藤業時・斎藤長定は事務官僚出身。三浦義村・中条家長・後藤基綱は有力御家人です。
この評定衆には、門葉(もんよう)とよばれる源氏一門からは選ばれていません。評定衆の前身ともいえる「十三人の合議制」も門葉から選ばれていませんが、源氏将軍頼家がいました。
この評定衆から見えてくるのは、泰時の時代になると幕府政治において源氏は必要なかったということです。企業でいえば、創業家のカリスマがリーダーシップを発揮していた時代から、実務能力に優れた社員が力を発揮する安定期に移ったといえます。
評定衆は政所に出仕し、政治や訴訟に関する評議や決定を行うようになりました。その結果、政所や問注所の職務が軽減され、一般事務や裁判事務が主たる任務になっていきます。
執権・連署制=複数執権制
伊賀氏の変以後、泰時が執権として政務を担当し、叔父の時房が泰時を補佐することになっていました。時房は、幕府の公文書に執権とともに署名したことから「連署」と呼ばれました。いわゆる執権連署制が確立します。
ところが、文書の多くは執権と連署をわけずに、ともに執権として署名(時房も執権として署名)していることから、執権連署制とは複数執権制のことではないか?という意見もあります。
泰時の政策に見る北条氏の事情
泰時になってから評定衆・執権連署制が設置されましたが、これは時政や義時に見られるような北条氏の「やり方」とは大きく異なります。
時政・義時時代は、ライバルとみなした御家人を滅ぼしていくことで北条氏の地位を高めていきましたが、泰時は御家人を仲間に取り込みその長になることで北条氏の地位を高める方法をとっています。
なぜ方向転換をしたのでしょうか??
ここにも、伊賀氏の変同様に、泰時の北条氏が鎌倉武士特有の課題に直面していたとがわかります。
当時の武士団は分割相続を原則としていたことは伊賀氏の変でも述べました。
分割相続していくと、代を経るたびに庶子家(分家)が分離・独立していきますが、北条氏もまた庶子家(分家)が惣領家(本家)から独立していく傾向がありました。北条氏も鎌倉武士ですから同じ傾向があって当然です。
もともと北条氏は、三浦氏や千葉氏のように有力な豪族ではありません。北条政子が源頼朝に嫁ぎ、将軍家の外戚となったことでその勢力を拡大できましたが、庶子家が惣領家から分離していくという他の御家人と同じ慣習を行えば、幕府内における北条氏の地位が低下していくことは明らかだったのです。
泰時が伊賀氏の変で当時の慣習を無視してまで相続を強行し、公文所を開設し、家法を制定したのも、北条氏自体を団結させ、地位の維持をはかる必要があったからと考えられます。
言い換えれば、泰時の惣領権は時政や義時に比べて弱く、他の御家人を滅ぼして勢力を拡大するという従来の北条氏の方針を遂行する余裕はなかったといえます。
したがって、評定衆という合議体制を敷いた本当の狙いは、余裕のない泰時が官僚・有力御家人と協力することによって幕府を動かすという苦肉の策と言えるのです。
この評定衆も時代が過ぎると北条一族が占められるようになり、執権政治は強化されていきます。
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