1224年(元仁元年)6月13日、北条義時は死去しました。
「吾妻鏡」によると、日ごろから脚気(かっけ: ビタミン不足で神経障害が発生し、最悪心不全にいたる場合も)があったところに、6月12日に急性胃腸炎を発して、翌日に没するという急死でした。
急死ゆえに、当時から暗殺説があり、現代においてもその疑念は晴れていません。
しかし、鎌倉時代で62歳、心不全にいたることがある脚気を患っていたとすれば、何かのきっかけでポックリ逝ってしまうことはあり得ることではないでしょうか?
義時の功績は、死後110余年が経った室町幕府の「建武式目」で再評価されます。
「鎌倉郡ハ、文治ニ右幕下(頼朝)始メテ武館ヲ構ヘ、承久ニ義時朝臣天下ヲ併呑ス」
頼朝の事業を発展・大成させた義時の偉業を的確に評していると言えるでしょう。
享年62歳。法名は観海(かんかい)。
得宗(徳崇)は、ひ孫の5代執権北条時頼が義時に送った追号です。
泰時、京都から鎌倉へ
義時が倒れた6月13日、京都六波羅の北条泰時のもとに飛脚が派遣されました。この飛脚が六波羅に到着したのは6月16日。翌17日午前2時に泰時は京都を出発します。
ところが、泰時が鎌倉に到着したのは26日。飛脚は3日で鎌倉から京都に到着しているのに、泰時は10日もかけて鎌倉に到着しています。
しかも、泰時はそのまま鎌倉の屋敷に入らず、由比(静岡県静岡市)のあたりで一泊し、27日になって鎌倉の屋敷に入っています。
すでに義時の葬儀は18日に行われていました。頼朝の墓所である法華堂の東側山上が義時の墓所といわれています。
6月17日未明に泰時は京都を出発していますが、19日に叔父の北条時房と足利義氏の2人が京都を出発します。2人は26日に泰時が滞在している由比に到着し合流します。
足利義氏は、義時・政子の妹である時子と足利義兼の間に生まれ、泰時の従兄弟にあたります。
室町幕府初代将軍である足利尊氏の先祖にあたります。
>>>足利義氏の活躍はこちら
6月27日、泰時は北条時房・足利義氏を従えて小町の西北にある屋敷に入りました。ここは最近になって修理を加えており、関実忠・尾藤景綱の屋敷も小町邸内に築かれていました。
実忠・景綱は泰時の被官(家臣)であって、後に「御内人」と称せられるようになります。
さらに、平盛綱・安東光成・万年右馬允・南条時員ら泰時の被官が泰時邸を厳重に警備していました。
『保暦間記』には、この間の経過を、
「泰時はしばらく伊豆に逗留して、時房が先に鎌倉に下った。彼が陰謀の族を尋ね沙汰して後、同26日泰時も入った。時房は随分忠をいたしたものである」と、伝えています。
泰時は伊豆に逗留したために帰国が遅れ、しかも時房が先に入り、陰謀事件が解決してから、26日に泰時も鎌倉に入っているのです。泰時は非常に慎重に行動していることがわかります。
鎌倉に広がる伊賀氏の噂
6月27日、鎌倉に入った泰時・時房に対し、尼将軍北条政子は「軍営の後見として、武家の事を執行すべきこと」を申し渡します。
つまり、これは亡き義時に代わって、泰時・時房が執権職を任されたのです。
6月29日、時房の長男時盛と泰時の長男時氏が、京都市内を厳重に警備するように厳命されたうえで上洛します。
義時の死後、いろいろな噂が鎌倉を飛び交っていました。それらの噂を打ち消すためにも、泰時は義時死後の政務処理を迅速に行う必要に迫られていたのです。
で、鎌倉に広まった噂というのは・・・
義時の後妻で、泰時の継母にあたる伊賀方(いがのかた)が息子の政村(泰時の異母弟にあたる)を執権に立て、伊賀方の兄弟である伊賀光宗らをその後見とし、さらに伊賀方の娘婿の一条実雅を将軍にして、幕府権力を握ろうというものでした。
この頃、伊賀光宗・光重兄弟は三浦義村邸を頻繁に訪れるようになります。それに合わせるかのように鎌倉中も次第に騒々しくなっていきました。
7月11日、義時の四七日法要が行われ、16日には五七日の法要が営まれましたが、その間も伊賀光宗らは三浦義村邸を訪れていました。
尼将軍政子動く
1224年(元仁元年)7月17日の深夜、尼将軍政子は女房駿河局をともなって三浦義村邸を訪れます。下座で敬服する義村に対して政子は、
「義時の死後、世相が騒がしくなっております。政村・光宗らがあなたの屋敷に入っていろいろ密談しているという噂がありますが、これは本当でしょうか?事実、泰時をおとしいれようとしているのでしょうか?義時の跡を継ぐことができるのは泰時だけです。政村はあなたの烏帽子子(えぼしご)でもありますが、二人がともに無事であって欲しいという願いからやって来たのです」
と、義村を問いただしますが、義村は知らないと言います。
しかし、さらに政子は、
「政村を授けて世を乱すような計画があるのですか?思いきって和平の計画を考えるべきではありませんか?いかがですか?」
と、詰め寄ります。義村は、政子の気迫におされたのでしょう。
「政村殿に謀叛の気持ちなど微塵もありません。ただ伊賀光宗らはその計画を練っています。私が思いとどまらせましょう」
と、誓ったと伝えられています。
翌7月18日、義村は泰時に事情を報告します。しかし、不穏な状況はいまだに解決されません。
7月30日の夜、義時の四十九日のあった夜には、鎌倉が騒がしくなりました。
御家人たちが甲冑をつけて、旗を上げて鎌倉市中を駆け回ったのです。明け方には静かになっていたらしいのですが、このような不穏な噂や動きが続くことは、これ以上許されないことでした。
翌日、鎌倉殿三寅と尼将軍政子は泰時邸に移ります。そして、三浦義村に騒ぎを鎮めるとともに泰時邸に出頭するように命じました。
そのほか、葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光・大江広元らの宿老も泰時邸に入ります。
有力御家人の大部分は泰時に味方しており、三浦義村にそのことを見せつける必要があったのでしょう。
伊賀氏追放
伊賀光宗らの謀略に対する処置が進められました。その結果、伊賀方と光宗兄弟は流罪、一条実雅は京都に送還され、朝廷で処罰されることになりました。
閏7月23日、一条実雅・伊賀朝行・光重・宗義・光盛らが京都に送られました。すでに京都には六波羅探題北条時房が帰京しており、時盛・時氏が補佐していました。朝行らはそのまま九州に流罪となります(一条実雅以外、伊賀一族は1年後に赦されています)。
また、光宗は政所執事を罷免のうえ、52カ所にのぼる所領が没収されました。執事の後任には二階堂行盛が任命されます。1か月後には伊賀光宗は信濃へ配流となり、伊賀方も伊豆国北条へ配流となりました。
この事件を制した北条泰時は執権として、時政・義時とは異なる手法で幕政改革と人身刷新を行っていきます。
また、政村は兄泰時のはからいで連座による厳罰を受けることはなく、北条時頼・時宗時代に宿老として幕府を運営していきます。
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