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その日本の中世。「院政時代」が始まりとされていますが、そもそも院政とはなんでしょうか?
今回は、院政とその歴史を簡単に解説します。
院政とは
院政は、在位中の天皇の親(父・祖父)が、天皇にかわって天下を支配するという政治体制のことです。「院」とは、もともとは上皇の住まいのことでしたが、のちに上皇そのものを指すようになりました。院が行う政なので「院政」ということです。
院政を行うのは、天皇に即位した経験があり、退位した上皇であることが原則ですが、在位の天皇の父・祖父であることが第一の条件だったようです。上皇であっても、現在即位している天皇の兄弟や伯父のような立場では院政を行えないのです。
院政を行う上皇は「治天の君」と呼ばれたりしましたが、その機能は天皇から与えられたものではなくて、自らがその地位に就くことによって生じました。
歴史上、天皇以外で天下を支配する権限を握った役職として、古代では藤原北家が独占支配した摂政・関白、中世では鎌倉・室町幕府の征夷大将軍があります。しかし、天下を支配したといっても、摂政関白・征夷大将軍とも天皇から任命される役職で、その点では、院政を行った上皇の地位は、摂政関白・征夷大将軍とは異なるものだったのです。
院政の流れ
平安末期
院政は、平安時代の後半に白河天皇が退位して上皇になったときに始まったとされています。白河院は、堀河・鳥羽・崇徳の約43年間、次の鳥羽院は崇徳・近衛・後白河の約27年間、その次の後白河院は二条・六条・高倉の約21年間にわたって院政を行いました。
後白河院政の場合、後白河院が平清盛に幽閉されて政権を奪われたとき、清盛の娘婿高倉上皇が、安徳天皇の時代に院政を行っています。平家没落によって後白河院政が再開されるのですが、院政という政治形態は平家全盛期の間にも続いていました。
鎌倉時代
後白河院政が再開されたときの天皇は後鳥羽。1192年(建久三年)3月に後白河院が崩御しましたが、この時上皇は存在しなかったことから、後鳥羽天皇によって「天皇親政」が復活します。院政は中断しました。
そして、1198年(建久九年)に上皇となった後鳥羽によって、院政が再開されます。土御門・順徳・仲恭の約23年にわたって続きました。
後鳥羽上皇は、1221年(承久三年)の承久の乱で鎌倉幕府に敗北して隠岐に流されました。土御門・順徳の両上皇も配流。4歳の仲恭天皇は廃位に追い込まれます。3ヵ月にも満たない在位でした。
幕府は、後鳥羽院の兄守貞親王の子を後堀河天皇として即位させます。守貞親王は皇位についた経歴はなかったことから、天皇の父という理由に「太上天皇(上皇)」の尊号を受け、後高倉院として院政を敷きました。しかし、後高倉院が1年余りで没したため、その後は本格的な院政は行われませんでした。
1246年(寛元四年)、後深草天皇に譲位した後嵯峨院が院政を再開します。後深草・亀山の約26年におよびました。しかし、後嵯峨院が没すると皇位継承について、後深草系統の持明院統・亀山系統の大覚寺統に分裂し、院政もこの2つの系統が交互に行うことになります。
後嵯峨院政が終わると、亀山院政が後宇多天皇の在位12年間おこなわれ、次に持明院統の後深草院政が伏見天皇の在位2年間行われます。その後、伏見院政が後伏見天皇の在位2年間行われました。
皇位が後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に移ると、後宇多院政が後二条天皇の在位7年間行われ、後二条天皇から持明院統の花園天皇に皇位が移ると伏見院政が復活。花園天皇から後醍醐天皇に皇位が移ると後宇多院政が復活しました。
そして、1321年(元亨元年)に後宇多が院政を停止。後醍醐による天皇親政が始まり、鎌倉幕府滅亡と建武の新政へとつながります。
一般的に「院政」について語られるのは、この後醍醐天皇による天皇親政までですが、実は室町以降も続いています。
室町時代
後醍醐による「建武の新政」が終わり、南北朝時代が始まると院政は復活します。
持明院統の北朝では、後伏見院政=光厳天皇、光厳院政=光明・崇光天皇、後光厳院政=後円融天皇、後円融院政=後小松天皇と続きました。
そして、南北朝合一以降は、後小松院政=後花園天皇、後花園院政=後土御門天皇と続き、後花園院政は1470年(文明二年)まで行われます。
これ以降は天皇の崩御に伴った即位となったことから院政は行われませんでした。応仁の乱による財政基盤の喪失は、天皇家の皇位継承もままならぬ状況に陥れたのでした。
一方の南朝では、院政を嫌った後醍醐天皇の遺志もあり、北朝のように簡単に院政が復活することはありませんでしたが、南朝末期には長慶院政=後亀山天皇という形で復活しています。
江戸時代
天皇家は、応仁の乱から戦国時代にかけて皇位継承もままならない状況になりましたが、織田信長・豊臣秀吉によって天下統一が進められると、天皇家も安定を取り戻します。
そして、徳川家康が江戸幕府を開き天下もおさまると、1611年(慶長十六年)に後陽成上皇=後水尾天皇という形で院政が復活します。その後、後水尾院政が明正・後光明・後西・霊元の50年間、霊元院政が東山・中御門の45年、光格院政が仁孝天皇の20年間にわたって行われました。そして、1840年(天保十一年)に光格上皇の崩御して以降は、「太上天皇=上皇」の尊号が贈られなくなったことから院政は途絶えて明治を迎えます。孝明・明治・大正・昭和天皇は終身の天皇です。ちなみに、2019年(平成31年)に退位された明仁上皇様は、光格上皇以来202年ぶりに上皇ということになります。
以上見てきたように、院政は、開始・終了に関する宣言や法令もなく、自然に発生・消滅した朝廷に深く根を張った政治的な仕組みだったのです。
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