今回は、平氏を源氏に並ぶ存在まで押し上げた平正盛の活躍についてみていきましょう。正盛は清盛の祖父にあたります。
まずは、平正盛の系統「伊勢平氏」の動向から。伊勢における平維衡と致頼(ともより)との争いは、それぞれの子の正輔と致経に受け継がれて続きます。東国では平忠常の乱の最中の頃のことです。忠常によって安房国を追われた安房守の後任として維衡の子正輔が安房守に任じられましたが、致経によって妨害され赴任することができませんでした。両者の争いは、致経が比叡山の横川にこもって出家し、1023年(治安三年)に没したことで終わりました。致経の出家の原因も、親子二代にわたる争いの原因も定かではありませんが、伊勢における維衡流の地位は確立し、伊勢平氏は成立したのでした。
伊勢における平氏の争いについてはこちら
平正盛登場
伊勢平氏が政治の表舞台に出てくるのは、正盛の代になってからです。白河院政が始まったころになります。
もちろん、維衡の子正度や孫正衡が没落していたわけではありません。正衡は検非違使となって、院の御幸や宮中の警護にあたり、時には禁中に乱入した熊野の先達(信者の引率者)を捕らえて恩賞の官を与えられ、盗賊を追捕して位が上がったりしましたが、目立つ存在ではなかったのです。この時代は、武士の長者・河内源氏が大いにその名をとどろかせていたからでした。
正衡の子正盛の代に入っても、伊勢平氏は目立つ存在ではありませんでした。正盛の官職は隠岐守。当時、受領は富裕になる一番の近道でしたが、隠岐の収入は少なく隠岐守ではそれもかなわないことでした。
そこで正盛は、父祖から譲られた伊勢・伊賀の所領の経営に力を入れました。河内源氏が、父祖の武勇や母方の血縁をもとに東国に勢力を拡げ、武士の棟梁の地位を築いたのとは対照的です。地道に勢力を築いていったといえます。
正盛は、1097年(永長二年)に所領の伊賀鞆田・伊勢山田の田畠・屋敷地をあわせて20町余りを六条院に寄進しました。六条院は、白河院の愛娘である郁芳門院媞子内親王の菩提寺です。この寄進によって、伊勢平氏が政権を握る第一歩となりました。
源義親の乱
桓武天皇の皇孫高望王が平姓を賜って臣籍降下してから、この桓武平氏の子孫には将門・貞盛・維茂・維衡のように名をあげた者もいました。しかし、清和源氏の頼信・頼義・義家のように、朝廷から優れた武士として認められた者は残念ながらいませんでした。平忠常の乱では、大将に起用された平直方は失敗したため、むしろ平氏の名を失墜させています。
このように武名においても、源氏の風下に置かれていた平氏ですが、正盛の代にいたって平氏の名は大きく天下に轟くことになります。そのきっかけは1108年(天仁元年)の源義親追討事件でした。
追討使に選ばれるまでの正盛
六条院に伊賀鞆田を寄進した正盛は、隠岐守から若狭守に任じられます。若狭は隠岐と比べ物にならないくらいに収入の多い国です。1102年(康和四年)、正盛は若狭守として堀河天皇の御願寺である尊勝寺の曼荼羅堂を造営し、その賞として若狭守を重任しました。その任期が終わると因幡守に任じられます。正盛は、温国(収入の多い国)の受領に転進しながら、京都にとどまって北面の武士として白河院の近辺に伺候していました。そして、ついに正盛の武名を天下に轟かせる事件が起こります。
源義親
源義親は、武士の長者としてその名が知られていた源義家の次男です。長男義宗は早くに没していたので、義親が河内源氏嫡流の後継者と早くから見なされていました。しかし、勇猛な点では父義家に似ていましたが、思慮や風流に欠けた乱暴者で、いつしか義家も義親よりも三男の義忠に家督を譲ることを決めます。
1101年(康和三年)に対馬守に任じられますが、九州で住民を殺したり官物を奪ったりする狼藉を働きます。当時、太宰大弐だった大江匡房はこれを朝廷に報告。朝廷は追討の官使を派遣し、父義家も郎党を派遣して義親を京都に連れ戻そうとしましたが、義親はこれを聞かないばかりか、義家の派遣した郎党も一緒になって官使を殺害します。
朝廷は、義親を隠岐へ流罪に処する決定をします。しかし義親は、隠岐の配所へは赴かず途中の出雲でも乱暴狼藉を働き、出雲目代を殺害して官物を奪いとります。この間、父義家は1106年(嘉承元年)7月1日に没しました。
義家の死を契機に、朝廷は本格的な追討使の派遣を決定します。義親の出雲での乱暴狼藉から追討まで、かなり年数が経過していますが、それは朝廷が義家に遠慮していたからでしょう。その義家が亡くなれば、誰にもはばかることはありません。朝廷は、義親追討を決定します。
追討使正盛
そして、その追討使には、これまで何の武名もない平正盛が起用されることになりました。その理由は、正盛は義親のいる出雲の隣国因幡守(本当の隣国は伯耆)だったからで、地方の反乱に隣国の兵が動員されるのは当時の慣例です。
在京中の正盛は軍を整えて、京都の義親邸に向かって三度鏑矢を射ち込んで出陣します。1107年(嘉承二年)12月19日のことでした。
それからちょうど一ヵ月が経った翌年1月19日、正盛から京都に報告が届きます。それには、「1月6日に出雲に赴いて、悪人源義親と郎党4人の首を討ち取った。来月上旬には上洛して、詳細を言上したい」というような簡単なものでした。
この報告を受けとった白河院は、堀河天皇が崩御して喪に服している最中であるとのことで、首の受け取りを後回しにして、さらに正盛の上洛を待たずに急いで勧賞(論功行賞)を行いました。正盛は、因幡守から但馬守に任じられたのです。
この勧賞について、当時の公卿たちは相当不満があったようです。
「正盛はまだ上洛していないのに、先に勧賞が行われた。賞は当然だけれども、正盛が最下品の者にも関わらず、第一国に任じられている。白河院の近臣は、天の幸を受ける人なのか」
「軍功とはいっても、正盛は最下郎の身のくせに第一国の国司になった。公卿たちは納得していない。しかも、まだ上洛していないのに!北面の武士だから優遇されたのだ」
「最下品」「最下郎」と言われるように、正盛が朝廷でまったく評価されていないことが分かります。
義家の場合は、「義家は、故頼義の長男。下野・陸奥国等を経て、位は正四位下にいたり、昇殿が認められた。武威は天下に満ち、まことにこれは大将軍」と評価されているので、やはり伊勢平氏の評価が相当低かったことをうかがい知ることができます。
1月29日、正盛は義親の首をたずさえて凱旋しました。白河院をはじめ、貴賤の車馬は道の両側に並び、京中の男女は道を埋め、人々は熱狂して見物しました。行列は源義親以下4人の従者の名前を記した赤札をつけた首を鉾に刺して、それを5人の下人が持って先頭に立ち、左右には50人ほどの武者が従い、正盛、降人、郎党100人、郎従100人が続きました。七条河原で検非違使が首を受けとり、七条大路から西大宮を経て西獄門にいたり、首を獄門の前の木に晒したそうです。
武名においても名をとどろかせた正盛の活躍によって、伊勢平氏は武力として源氏と共に重用されるようになります。これ以降、延暦寺の強訴などにおいても源氏とともに平氏が名を連ねることになります。
源氏の風下に置かれていた平氏が、源氏を逆転する時代がやってきたのです。
参考文献
竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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