持明院統と大覚寺統の始まりと鎌倉幕府を巻き込んだドロドロの抗争

朝廷
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鎌倉・室町時代を理解するには、この時代に起こった「天皇家の分裂」を理解することが非常に重要と思われます。

というのも、鎌倉幕府の滅亡も、南北朝時代もこの両統迭立を軸に動いていきます。足利義満によって南北朝時代は終結したことになっていますが、天皇家の分裂はそれ以降も続くのです。

教科書には「両統迭立」がさらっと出てきて鎌倉幕府滅亡。1392年に足利義満によって「南北合一」で南北朝の動乱終了と書いてありますが、この時代を理解するための一助として、詳細にお話したいと思います。

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後嵯峨院崩御のあとは後深草か?亀山か?

1272年(文永九年)2月17日、30年間治天の君であった後嵯峨法皇は京都嵯峨の亀山殿寿量院で崩御しました。

 

 

後嵯峨院政のあとを継ぐべき候補者は2人。1人は、後嵯峨院の第三子でそのあと皇位につき、いまはすでに譲位している後深草上皇。もう1人は、第七子で現在皇位にある亀山天皇

父の後嵯峨院は、治天の君として後深草・亀山の在位中も政務の実権を掌握して院政を敷いていました。

後嵯峨院は、兄の後深草上皇より亀山天皇を溺愛していて、兄後深草から弟亀山へ皇位を譲らせたのみならず、亀山天皇の皇子世仁親王(のちの後宇多天皇)が生まれると、後深草上皇に皇子煕仁親王(のちの伏見天皇)がいるにも関わらず、1歳にもならないうちに皇太子に立てました。

後嵯峨院は、死の一カ月前の1月15日、自身が所有する荘園などの処分状をしたため、後深草上皇と亀山天皇、その2人の母であり自身の中宮である大宮院姞子(おおみやいんきつし)、その他の者に配分することを定めました。しかし、そこには長講堂領についての記載はなく、皇統については触れられていなかったようです。

「六勝寺・鳥羽殿の荘園については、政務の実権を執る者(治天の君)が支配すべき)」とだけ記して、「治天の君」が誰かを指名しませんでした。

さらに、治天の君については、鎌倉幕府へ相談して、幕府の決定に委ねるように指示していたのです。

「治天の君」について、なぜ天皇家が自ら決定せずに、幕府に委ねたのでしょうか。それは50年前の承久の乱以来の歴史にありました。

 

 

承久の乱後、後鳥羽院ら三上皇を配流し、仲恭天皇を廃した幕府は、後鳥羽院とは別系統の後堀河天皇を擁立します。ところが、後堀河天皇の子四条天皇が12歳で後継もなく崩御したので、幕府は後鳥羽院の系統で阿波に配流となっていた土御門上皇の皇子邦仁親王を推薦し擁立しました。

後嵯峨天皇系図

 

邦仁皇子こそ後嵯峨院で、即位したときから重要な事項は幕府に相談し、意向にしたがう姿勢だったのでした。したがって、自身のあとの「治天の君」の座を誰にするのかということも、後嵯峨院としては幕府の意向をうかがうのは当然のことだったのです。

しかし、朝廷との関係が順調にいっている幕府にとっては面倒な話で、後深草・亀山のどちらでもよいというのが本音でした。しかし、上皇・天皇いずれかに仕える公家にとってはどちらでもよいという話ではありません。

後深草上皇が院政を執るのか、亀山天皇が親政を執るのかによって、どちらにつくのか?などといった「身の振り方」を考えなければならないからです。

後深草・亀山、公家たちは幕府に裁断を仰ぎ、裏工作を色々行うようになります。

 

 

やがて幕府は使者を上洛させて、後嵯峨院の生前の意志を問い合わせてきます。そこで、上皇・天皇の母であり故後嵯峨院の中宮であった大宮院姞子に証言をもとめたところ、「後嵯峨院は亀山天皇に継がせたい意志だった」と言ったので、結局「治天の君」は亀山天皇に定まったのでした。

しかし、亀山天皇の新政によって問題はさらに面倒なことになっていきます。

両統迭立のはじまり

1274年(文永十一年)1月、亀山天皇は皇太子の世仁親王(後宇多天皇)に譲位しましたが、引き続き治天の君でありつづけたので、「親政」から「院政」という形で政務が行わうことになりました。

後深草上皇の不満

「亀山-後宇多系統」によって、皇位が継承されていく素地が出来上がりつつありました。これに対して、内心不満を抱いたのは後深草上皇です。

 

両統迭立

 

1275年(建治元年)、後深草上皇に太上天皇の尊号が贈られることになりましたが、上皇はこれを辞退し、出家の意思表示をするという騒ぎがおこります。

これは幕府にも伝わり、世仁親王(のちの後宇多天皇)を皇太子とすることを認めた責任を感じた8代執権北条時宗は、後深草・亀山上皇の了解をとりつけて、後深草上皇の皇子煕仁親王(のちの伏見天皇)を亀山天皇の猶子(相続権をもたない養子)として、皇太子の位につけました

両上皇の了解とはいえ、このことは次の天皇が後深草系から出るということで、治天の座も後深草系統に移る可能性が高まります。さらに、後深草上皇には長講堂領という巨大な荘園群が伝領されていました(持明院統の財政基盤となります)。

 

 

亀山上皇の巻き返し

これに危機感を抱いたのは他ならぬ亀山上皇でした。亀山上皇も六勝寺などの荘園群は伝領されていましたが、長講堂領のような巨大さはありません(それでも巨大なのですが)。

2度目の蒙古襲来・弘安の役が終わった翌々1283年(弘安六年)9月4日、八条院領の名義人安嘉門院が明確な相続人を指名せずに没しました。

治天の座にあった亀山院はこれを手に入れることを考え、鎌倉へ使者を送り安嘉門院遺領(八条院領)を相続したい旨を伝え、それがかなえられたあとは出家することを申し入れます。

両系統の対立に中立的な幕府は、相続を承認するばかりでなく、出家には及ばない旨の返事をし、八条院領は亀山院に伝領されることになりました(これが大覚寺統の財政基盤となります)。

1286年(弘安九年)10月、後宇多天皇の皇子(亀山院の孫)で1歳半の邦治王に親王宣下が行われました。治天の君亀山院が、自系統に皇位を取り戻す将来への布石でした。

 

西園寺実兼と平頼綱の干渉

この布石に立ちはだかったのが西園寺実兼でした。西園寺家は鎌倉初期の西園寺公経のころから幕府と関係が深く(関東申次の職にありました)、承久の乱後は摂関家に劣らない権勢をみせていました。公経のあと、西園寺と洞院の両家にわかれ、実兼は西園寺家の嫡流でした。

実兼は亀山院と折り合いが合わず、後深草院に近づいていたので、邦治親王への親王宣下が行われると、皇統が亀山系統に移ることを警戒します。

そこで実兼は、幕府を牛耳っていた北条氏被官で内管領の平頼綱と相談の上、後深草院による院政のはかりごとを進めます。

 

 

1287年(弘安十年)10月12日、幕府の使者平宗綱が実兼邸を訪れ、煕仁親王(伏見天皇)を即位させて、後深草上皇による院政を求める幕府の意向を伝えました

亀山院は按察使(あぜち)藤原頼親を鎌倉へ走らせましたが、幕府の意向(平頼綱の意向)を覆すことはできませんでした。

同月21日、後宇多天皇は譲位して、後深草院の皇子伏見天皇が即位。後深草上皇が院政を行うことによって、治天の座は亀山院から後深草院に移ったのです。

両統迭立

 

翌1288年(弘安十一年)、伏見天皇に皇子胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれると、その翌年には皇太子に立てます。

 

劣勢の亀山院

北条得宗家の御内人で内管領の平頼綱の圧力を受けて、亀山院は治天の座を後深草院に譲ることになりましたが、さらに関東での事件が亀山院に伝えられます。

 

 

その事件とは、1289年(正応二年)に将軍職にあった惟康親王が追放され、後深草院の皇子で、伏見天皇の弟である久明親王が新たに将軍として鎌倉に下向するというものでした。

 

両統迭立

 

これに関しては、当時19歳の執権北条貞時が将軍就任期間の長い惟康親王の存在を嫌がったため、頼綱が久明親王の将軍就任を画策したとも言われています。

一方で頼綱は、次男の飯沼資宗の朝廷官職上昇させることにも意を注いでいることから、後深草院や西園寺実兼との共謀であることも考えられます。

亀山院は失望のあまり、南禅寺禅林院で出家します。

浅原為頼事件

1290年(正応三年)3月9日夜(10日未明)、内裏西門の宜秋門から武者3人が馬に乗ったまま御所へ乱入する事件が起こりました。その武者たちは、殿上へ上って女嬬(にょじゅ:下級女官)の部屋の入口に立ち、伏見天皇の寝所の場所を大声で問いただします。

女嬬はとっさの判断で間違った方角を教え、その間に天皇の寝所である清涼殿に連絡し、伏見天皇と中宮は女装して内裏を脱出します。皇太子の胤仁親王(のちの後伏見天皇)も中宮の按察使が抱いて後深草院の御所へ逃げ、内侍や女嬬が三種の神器と玄像・鈴鹿をもって避難しました。

この武者たちは、甲斐源氏の小笠原一族(霜月騒動で頼綱によって粛清された)の浅原八郎為頼という武士とその子2人(光頼・為継)で、所領を平頼綱に没収されてから各地で狼藉をかさねていたといいます。

 

 

彼らは内裏の中を探し回って、ようやく清涼殿の天皇の寝所を見つけましたが、すでに伏見天皇たちは内裏の外に避難。しばらくして、中宮の護衛で景政という武者が名乗りをあげて一騎打ちを続けていたところ、間もなく二条京極の篝屋の武者50騎が駆けつけて乱入します。

多勢にかなわないと悟った為頼は、ついに天皇の寝具の上で切腹して果てます。長男の光頼は、紫宸殿の御張台(天皇の御座所)で自害。次男の為継は、清涼殿の大床子(天皇の食膳をのせる机)の下で自害しました。遺体はいずれも六波羅探題へ運ばれました。

騒動が終わって、夜明けとともに京都は様々な噂が飛び交ったようですが、為頼が自害したときにもっていた刀は三条実盛の家に伝わる名刀「鯰尾」だったことから、実盛は六波羅探題に逮捕されます。

さらに、亀山院と為頼に関係があったという噂が広まり、三条実盛も大覚寺統の公家だったことから、伏見天皇と西園寺実兼の子の公衡などの持明院統の公家は「謀叛の陰謀であるから、承久の例にならって亀山院を六波羅へ監禁すべき」と主張して、後深草院の前で息巻いたといいます。

後深草院はその主張を退けました。亀山院も事件に関係のない旨の誓紙を鎌倉幕府に送ったことから、幕府はそれ以上の追及はおこなわず、三条実盛も釈放されて、事件は終わりました。

大覚寺統と持明院統

亀山院の系統が弱り目にたたり目の状況になったのに対し、後深草院の系統は幕府の後ろ盾(平頼綱の後ろ盾)もあって、確固たる優位性を築こうとしていました。

しかし、それは両統の優劣の問題よりも根深く、事実上天皇家が二つに分裂する事態に発展していたのでした。

亀山院の系列は、亀山院の出家後、後宇多上皇がこの系統の「惣領」の地位にありました。後宇多上皇はのちに京都嵯峨の大覚寺を再興し、大覚寺殿とよばれました。以後も、子孫が大覚寺と関係が深かったことから、亀山院の系統を「大覚寺統」と呼ぶようになりました。

これに対して、後深草院の系列は、浅原為頼事件の少し前に伏見天皇に「惣領権」が委ねられて、「伏見親政」となっていました。1298年(永仁六年)7月、皇太子の胤仁親王に譲位して(後伏見天皇)伏見上皇の院政となります。

伏見上皇は、里内裏(天皇の仮御所)の一つ持明院御所(京都市上京区)を仙洞御所として、持明院殿と呼ばれます。以後も子孫が多く持明院殿に住んだので、後深草の系統を「持明院統」と呼ぶようになります。

こうして、天皇家は完全に分裂してしまったのでした。

>>>両統の荘園をめぐる争いと後醍醐天皇の登場

 

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