【嘉元の乱】北条貞時の専制政治!と思いきや北条氏の内紛というオチ。

鎌倉時代
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貞時は、御家人の窮状を救うために永仁の徳政令を出しましたが、逆に社会の混乱を招きました。また、貞時は引付や越訴を廃止することができなかったばかりか、権力を得宗に一元化することもできませんでした。

→永仁の徳政令

【永仁の徳政令】混乱を招いた北条貞時の政治
平頼綱の政治は、明らかに安達泰盛の政策を否定したものでした。 そして、今度は北条貞時が平頼綱の政策を否定します。 平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動以後の賞罰はすべて無効とされたのです。 また、頼綱によって失脚させられた御家人を幕府...

得宗専制政治と言われる時期ですが、得宗貞時の思い通りに事が運ばないところに得宗の限界が見え隠れします。

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対立する諸勢力

1301年(正安三年)8月、貞時は突然執権職を娘婿の北条師時(もろとき)に譲り出家します。同時に大仏宣時も連署を退き、北条時村が連署に就任しました。評定衆・引付頭人・越訴方は北条宗方が兼任します。

そして、安達泰盛の外甥である大江宗秀が越訴頭人に就任し、得宗貞時らの御家人保護派が幕府の要職に就いていきます。貞時は出家したとは言え、自らの路線を引き継ぐ人物を起用していったようです。

ところが、翌年連署を退いていた大仏流北条宗宣が引付頭人・官途奉行・越訴奉行を兼任することになります。北条宗方は宗宣に対抗するかのように、今まで御内人が就いていた侍所所司に任ぜられ、さらに内管領の地位に就任します。貞時も大仏宗宣のことを良く思っていなかったからこそ、宗方のこの役職への就任を認めたのでしょう。

宗方は、これによって侍所所司という立場から御家人を支配し、内管領という立場から御内人を支配することで、幕政の実権を掌握します。

このように、貞時が出家する頃には、幕府内に北条氏庶家(得宗以外の北条氏)、あるいは御家人などの様々な勢力が存在し、得宗が幕府の運営について独断で進めることは難しい状況になっていたと考えられます。

北条師時と宗方の重用

得宗の貞時は、従兄弟の北条師時と宗方を重用しましたが、この二人に北条兼時を含めた三人は、貞時の父である時宗の猶子(ゆうし)となっているのです。

猶子とは、他人を自分の子として迎えることです。養子と違うのは、相続を前提していないことです。

貞時には兄弟がいませんでしたから、時宗の猶子として彼らを迎えることで、実質的に貞時の兄弟を作り出し、得宗の周囲を固める狙いがあったものと考えられます。

兼時は、長門・播磨・六波羅・鎌倉・鎮西・鎌倉と各地を転々とした人物です。その一方で師時と宗方は、幕府中枢で順調に昇進を遂げていきます。

北条師時

師時は1275年(建治元年)の生まれで6歳のときに父を亡くしました。幼い師時を庇護する目的もあって時宗の猶子とされたと考えられます。そして、早くも10歳の時には小侍所別当となっています。これは義父時宗も経験した役職でした。師時に対する時宗の期待がわかります。

1293年(永仁元年)に平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされると、師時はその年のうちに評定衆となり、三番引付頭人に任じられました。貞時が新たに設置した執奏にも登用されています。引付が復活した三年後には二番引付頭人となります。

その後、出家した貞時に代わって執権に就任しました。約10年にわたり執権職をつとめますが評定の座で倒れ、1311年(応長元年)に没しました。享年37歳。

北条宗方

宗方は、1278年(弘安元年)の生まれました。父宗頼が周防・長門守護として現地に赴いていたころ、長門で生まれたと言われています。しかし翌年、父が没します。そして、16歳の兄兼時が、そのまま長門に残って父の守護職を継承しました。生まれたばかりの宗方は、鎌倉に移されて時宗の猶子になりました。

20歳となった宗方は、六波羅探題北方に就任します。1300年(正安二年)に鎌倉に戻ると、その年のうちに評定衆となり、翌年には四番引付頭人となりました。また同年のうちに越訴頭人に就任しています。1304年(嘉元二年)には引付頭人を辞して、得宗家執事(内管領)・侍所所司となり、幕府の実権を握りました。

師時と宗方の昇進は、それまで先例を超える早いものでした。彼らはともに、幕府の私的意思決定機関の寄合にも参加しています。

時宗や貞時は、二人を政権の中枢に登用することで、得宗の強力な補佐役にしようと考えていたのでしょう。

得宗を強化しなければならないということは、得宗貞時を脅かす勢力があったと考えることもできます。この勢力というのが大仏宗宣らの北条庶氏であったり、他の御家人たちだったりしたのではないでしょうか。

嘉元の乱

1305年(嘉元三年)4月、嘉元の乱がおこります。

嘉元の乱とは、貞時の命令を受けたとされる北条宗方の手勢が、連署の北条時村を襲撃して殺害し、さらにその宗方が貞時の命令で誅殺された事件です。なぜ、貞時を支える勢力の宗方が貞時よって滅ぼされたのでしょうか?事件の経過を見てみましょう。

嘉元の乱の経緯

1305年(嘉元三年)4月23日、連署の時村の住む葛西谷(かさいがやつ)の邸宅が襲撃されました。襲撃した軍勢は、得宗の貞時の命令を受けての行動と自称していたそうで、時村は彼らに殺害されました。

5月2日、貞時が宗方にそのような命令を出していないことが判明し、時村を襲撃した人々は処刑されます。

5月4日、事態に対応するために、執権北条師時の邸宅で評定が行われました。この評定には得宗の貞時も参加しています。すでに、この時点で宗方が時村襲撃の首謀者と噂されていました。

慌てた宗方は手勢を連れて評定の場に向かいました。貞時は、宗方に対して自邸へ戻るよう命じます。

ところが、この命令を伝えるために送られた佐々木時清が、そのまま宗方と合戦になってしまいます。時清と宗方はいずれも討死。

さらに二階堂大路薬師堂谷口(やくしどうがやつくち)にあった宗方の邸宅には討手が派遣され、その勢力は一掃されてしまいます。

嘉元の乱の経緯は、1272年(文永九年)の二月騒動に似ています。この時は、北条一族で一番引付頭人任にあった名越時章が襲撃されて自害しました。
→二月騒動

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しかし、のちにその命令は誤りとされ、実行犯となった人々は処刑されました。嘉元の乱でも、時村の殺害は誤りとされましたが、今回は実行犯を処刑するだけで収まらなかったようで、実行犯に襲撃を命じた宗方が殺害されました。

誤って殺害された時村は、幕府の重要人物でした。彼のこれまでの経歴を振り返りましょう。

北条時村

1269年(文永六年)、28歳で引付衆に任じられると、翌年には評定衆となっています。

1271年(文永八年)には、30歳で陸奥守となりました。陸奥守は、足利氏などの幕府草創以来の有力者や北条氏の長老格しか就任していない役職です。その2年後には二番引付頭人にまで昇進しています。

1277年(建治三年)12月、六波羅探題北方となり、執権探題として六波羅を主導する立場となります。この時期は蒙古襲来への危機感などもあって、六波羅探題の機構整備が進められていました。

時村はこれまでの経験を買われて六波羅探題となったのでした。探題在任中には武蔵守に就任します。この役職は、幕府内の有力な北条氏が任じられるのが先例でした。幕府内の信頼を得た時村は、1287年(弘安十年)8月に鎌倉にもどって一番引付頭人となります。そして1301年(正安三年)、60歳にしてついに連署となったのです。

北条得宗家以外、つまり庶家でここまで出世できたのは、時村に相当の実力があったからでしょう。

結局、理由はわからない

結局のところ、なぜ時村が宗方によって滅ぼされたのか理由はわかっていません。

宗方が貞時の意向を忖度しすぎたとも言われていますが、実際は貞時の謀略ではないでしょうか?

政治経験が豊かな時村の存在は得宗貞時にとって脅威に映ったのかもしれません。幕府の様々な要職に就いている時村は、幕府の要職をなくして得宗一元化を目指す貞時と政治の方向性が異なっていてもおかしくありません。つまり、反貞時派と考えることもできます。

また、幕府の実権を握った宗方も貞時にとって脅威に感じたのかもしれません。そこで、貞時は裏で宗方を命令して時村を討たせ、その全ての責任を宗方に押しつけて滅ぼすことで両者を片付けたと考えることも出来ないでしょうか。

幕府組織の完成?

1308年(延喜元年)8月、8代将軍久明親王が突然帰京させられます。突然帰京させられましたが、宗尊親王や惟康親王の将軍就任の時のように何か幕府にとって不都合があったわけではなかったようです。

→宗尊親王追放

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むしろ、久明親王と得宗・幕府の関係は良好だったと伝えられています。かわって、久明親王の皇子で8歳の守邦親王が鎌倉幕府の最後の将軍に就きました。将軍交代が恒例行事化してきたと言えるかもしれません。

この頃になると、貞時は政治意欲を失っており、酒に溺れる日々が続いていたといいます。引付奉行人の平政連が貞時に諫言を行いましたが、具体的な効き目はなかったと言われています。

得宗専制政治と言われていますが、貞時の政治を見ると決してそうではなかったと思います。

鎌倉時代前半の得宗は、政変などをきっかけにして幕府内に一定の立場を確保してきました。

それを制度化したものが、執権・連署・評定・引付・寄合とよばれる役職です。歴代の得宗個人によって幕府の役職が創設されていったのです。

貞時もまた、引付を廃し執奏を設置することを試みましたが、いずれも失敗に終わりました。結局、歴代得宗が設置した組織で幕府の運営を行うことになります。したがって、ここに鎌倉幕府の制度が完成したというべきなのかもしれません。

しかし、それは幕府制度の硬直化が始まったことを意味していました。悪党が活動を活発化させるなど、大きく変動する鎌倉末期の社会に幕府は対応できなくなっていきます。さらに、得宗そのものの形骸化が進んでいきます。

幕府に暗雲立ちこめる中、1311年(応長元年)10月に貞時は41歳で死去しました。

以後、鎌倉幕府・北条氏は存亡の危機に立たされていくことになります。

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