「東夷(あずまえびす)」と、京都から蔑まれようが、何だろうが、武士には戦の「ルール」というものがありました。
とは言え、ルールは時代とともに変わるものですが、今回は、平安末期~鎌倉前期の戦の「模範的」なルールをご紹介しましょう。
軍使の派遣
この時期の戦いは、まず軍使を交換し、合戦の日時・場所を決定することから始まります。この軍使の安全を保証することは「兵法の常」とされていました。
現代の戦争でも、外交特使の身の安全は保証されるのが原則ですが、平安~鎌倉の武家の戦いも保証されます。
平家が戦わずして敗走した「富士川の合戦」では、それが無視された戦いでした。
平家側は「武田氏からの書状が無礼であり、軍使の身体の安全を保証するという兵法は『私戦』のときのもので、頼朝追討の宣旨をいただく今の場合には適用されない」と言って、使者の首を切ってしまいます。
これは「平家は官軍で、頼朝は朝敵なのだから、軍使の安全に関するルールを守る必要はない」と考えたからでしょう。
しかし、平家軍の武士たちはこの行為を非難する者が多く、平家敗走の一因となったと言われています。
ヤアヤア、我こそは・・・
ここからは、超有名なシーンです。
合戦の日時・場所が決まると、両軍相対して戦闘準備の態勢に入ります。
そして、ここで再び軍使を交換して挨拶をかわすか、代表者が陣頭にあらわれ、
「ヤアヤア、我こそは・・・。」
と、武勲に輝く祖先からの功績をほこり、今日の合戦が「正義にかなう」ゆえんを説き、「敵方の不義を追及」し、味方の軍勢の士気を奮い立たせます。
相手方からもこれに応じ、双方とも激しい舌戦を繰り広げます。いうなれば、宣伝合戦です。
言いたいことを言い尽くすと、次に「ブーン」と音を鳴らしながら飛ぶ「鏑矢(かぶらや)」が射られます。相手方もこれにこたえて鏑矢を飛ばします。
これを「矢合わせ」といい、戦闘開始の合図になります。
大将がここで「エイエイ」と大声を発し、総勢はこれにこたえて「オウオウ」と鬨の声をつくります。
矢戦
戦いは、まず矢戦から始まります。距離が離れている間は、遠矢の射合いとなります。
遠距離まで飛ばすために45度の仰角をもって放たれる遠矢では、当然鎧を貫通させることは困難です。
当時の弓矢の射程距離は、50メートルから100メートルくらいと言われ、近づけば近づくほど威力を増していきました。
ですから、馬に乗ってできるだけ近くまで突進し、狙いを定めて矢を放ち、このとき敵の弱点や急所を狙うのです。
弓は右手で引き絞るので、左側に見える敵を射るのが最も効果的です。したがって、敵の右側に立つのが有利な攻撃位置となりますが、敵の射手の腕が自分より上の場合は、わざと逆の左側に回って、その弓勢をまともに受けないように工夫する必要がありました。
いずれにしても、巧みに馬を乗りこなし、しかも馬上での弓術に優れていなければなりません。
「強弓の精兵、矢つぎ早の手先」と言われるように、百発百中の正確さと鎧を射抜く強弓、それに次々と矢をつがえて射る敏速性、これが優れた武士に要求される技術だったのです。
東国武士は、この技術に長けていました。
馬上の突撃の際には、攻撃だけでなく防御にも気を配らなければなりません。
「つねに鎧突せよ、うらかかすな。シコロをかたぶけよ(ヨロイを揺り動かしてサネとサネの隙間をなくせ。兜の後方に垂れ下がっているシコロを下げて鎧に密着させよ)、内兜を射さすな」
一ノ谷合戦のとき、熊谷直実が16歳の息子直家に与えた教訓として『平家物語』に記されています。
当時の鎧兜は、騎馬戦に適合するように、運動の軽快性を重視して作られていました。軽いぶん、隙間が多かったのです。戦国時代の具足のように人体の全てを覆い隠すようにできていません。
ですから、鎧兜にある隙間をかばうような態勢を取る必要があったのです。
矢を射合いながら接近した両軍は、やがて入り乱れての合戦に入ります。
太刀戦
エビラ・ヤナグイに入れて背に負っている矢の数は2、30本程度ですから、矢戦によって数が少なくなると、「太刀打の戦」が始まります。
馬を駆けさせ、敵とすれ違いざまに馬上から太刀を振り下ろして戦います。
日本の古代の刀は、相手を突くのを目的としていたので、一直線で反りのない直刀ばかりでしたが、平安後期からは馬上から振り下ろすことを想定した反りの入った太刀に変化したと言われています。
この当時の刀の長さは75センチ程度で、後の徒歩戦が主体となった時代より長めでした。
両者は馬を駆けさせ、すれ違う一瞬に切りつけ、あっという間に走りすぎてしまいます。
ですから、太刀打といっても剣道のようににらみ合うことはありません。同時に、致命傷を与えることも困難だったと言われています。
乱戦のあいだも、
「ヤアヤア、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは・・・」
と、名乗りをあげて、自らの身元を明らかにし、互いに名乗りをあげて戦いあううちに、「さてはよき敵ござんなれ」と狙いをつければ、「いざ組まん」という組打ちとなります。
組打ち
正面から馬をぶつけて相手を突き落とし、落ちたところを組みしくとか、あるいは背後から追いつき、馬を並べて駆けさせ、組みついて下に落とします。
上になったり、下になったりして取っ組み合いを行い、相手を組み伏せると、腰に差している小刀(「ヨロイ通し」といい、長さは25センチ~30センチ)を取り出し、鎧の隙間などの急所を狙って突き刺し、相手を弱らせてから首を取ります。
この時代の戦いの基本は、以上のような感じで進みます。
組打ち以外、すべて騎馬による個人戦です。そして、組打ちになるまでに大勢が決していることが多々ありました。
ですから、当時の武士は日ごろから流鏑馬・笠懸・犬追物などによって馬上の弓術の腕を磨いていたのです。
一騎打ち
武士たちは、常に自ら名乗りをあげて戦い、敵にも名乗りを求めました。そして、「良い敵」とみれば、その首を狙い、「あわぬ敵(戦う価値のない相手)」とみれば組もうとはしません。矢の一本一本にも自分の名を記したり、彫り込んだりする手の入れようです。
当時は、名乗りを上げて戦う一騎打ちが主体です。
一騎打ちと言えば、周りが見ている中で演じているように想像してしまいがちですが、たしかに、10世紀頃の合戦はそのような戦いでした。
しかし、源平合戦以降は、一見すると集団戦をしているように見える一騎打ちに変化します。
つまり、多くの一騎打ちが同時に同場所で展開されているのです。
戦のルールも変わる
以上、述べてきた「戦のルール」は、源平合戦以降徐々に変わっていきました。
平家軍の富士川の合戦で軍使を斬る行為や、源頼朝が平家打倒挙兵時に伊豆目代の山木兼隆を奇襲したり、一ノ谷の合戦では義経が平家を奇襲するなど、「ルール違反」が数多く行われていました。
戦が大規模化・全国化していくにつれ、ルール違反(ルール変更)が行われていったのです。
のちの蒙古襲来では、元軍の集団戦法に対して、日本軍は一騎打ちを主体とした戦法だったので苦しんだと言われていますが、実はそうでもないようです。
集団戦を行う元軍に対してかなりの損害を与えていることから、それなりの集団戦を展開していたようです。
もちろん、後の時代に見られるような統率のとれた集団戦ではありませんでしたが…
ですから、元軍に苦戦した理由が、武士たちが一騎打ち戦法だったからというのは、少々違うようです。
そして、鎌倉末期から南北朝時代にかけて、戦い方や刀剣などは大きく変化していきました。
コメント