高校日本史Bの教科書『詳説日本史』に出てくる「肥後国鹿子木荘」。
開発領主である沙弥寿妙(しゃみじゅみょう)の子中原高方は、権威を借りるために太宰大弐藤原実政に年貢4千石をおさめるという条件で寄進し、実政を領家と仰いで自らは預所職になりました。その後、国衙の乱暴を防げなくなった実政の子孫隆道(願西)は得分のうち2千石を高陽院内親王に寄進して本家と仰ぎ、内親王没後は御室仁和寺に継承されて、これが本家となった。という話は有名です。
この話に基づいて、鎌倉時代の荘園支配について見ていきましょう。
荘園領有の重層構造化
院政期に立荘された荘園は、当初は権門(王家・摂関家・寺社)が「本家」として荘園知行者を「預所職」に任命するという、「本家-預所職」という単純な支配構造でした。
しかし、院政期末~鎌倉時代を通して、継承・寄進・権益の分割が行われて徐々に得分権(利益が得られる権利)が分化してくると、それぞれの地位に付随する機能・権益も分化されて職として確立し、「本家職-領家職-預所職」という重層構造が形成されていきました。一つの土地からの富を分け合う仕組みが出来上がってきたのです。
本家・領家・預所の関係ですが、院政期に立荘された荘園は、荘園の領有者(領家)が本家に荘園を寄進すると預所職に任命され、本家の庇護を得て荘園を知行しました。
つまり、領家は任命されるような職ではなく、土地の所有者をあらわす言葉で、寄進主として強固な権利をもっていました。
一方、預所は荘務を執行する職ですので、この時点の荘園知行体系は「本家-預所職(=領家)」とあらわすことができます。彼らは荘園を子孫に継承する際も、そのつど本家から預所職に任命されるという手続きを踏み、これを介して本家と領家は関係を設定し直していました。
しかし、本家と領家の関係が安定している場合、本家はしだいに預所職への任命という手続きを踏まずに荘園の知行を領家に委ね(安堵)、自らは訴訟における支援を行う代わりに得分(年貢・公事)を受けとるようになりました。
また領家も、別の人物を預所職に任命して荘務を担わせ、得分を得るようになります。この、預所職を任命して得分を取得するという荘園の所有権が物権化したものが領家職で、ここに「本家-領家職-預所職」という重層的な知行体制が成立したと言われています。
領主間紛争
本家と預所(領家)の関係は、当初は主従関係によって設定されていました。公家領荘園の場合、荘園領有者の公家は、院や女院、摂関家などに寄進して、院司(いんじ)や女院司(にょいんじ)、また摂関家の家政機関職員として人的な奉仕も行うことで、その関係の中で「預所」への補任や荘園の安堵が行われていました。
つまり、「本家-領家・預所」=「権門-奉仕者」という構図がありました。
しかし、世代を重ねるにしたがって、主従関係と荘園知行の間に食い違いが生まれてきます。
本家=権門、領家・預所=奉仕者も家の分立を繰り返し、また、主従関係も多元的・非固定的になったので、分割相続のさいに知行関係と奉仕関係とが一致するとは限らなくなったのです。
領家・預所の側は、本家に対して人格的主従関係とは切り離された経済的関係のみを望んだのに対して、本家の側は継続的な人格的奉仕関係を期待しました。
したがって、本家は、自らに奉仕しない領家・預所を改替(かいたい)したり、本家の後継者が領家・預所の荘務権を認めないなどのケースが度々生じます。
その結果、改替された領家・預所は先祖伝来の所領の返還を求めて、自らが仕える権門へ嘆願・提訴を行ったり、他の権門への口入の要請、さらにその所職を第三者に寄進して対抗する寄沙汰(よせざた)など、様々な方法で抵抗するようになります。
このように、荘園領主の権力が動揺すると、公家社会内部でも道理に基づいた裁判を求める動きが起こり、13世紀後半に裁判機構の整備が行われることになりました。
治天の君である院の法廷が「本家-領家」相論のような上部の所職に関する訴訟を担当し、諸権門・荘園領主の法廷がそれ以外の訴訟を担当するというように分担され、幕府の裁判制度とともに充実していくことになります。
沙汰人・雑掌
ここで荘園経営を担った階層についても見ておきましょう。
荘務を担う預所は、実際の荘務運営を「沙汰人」や「雑掌(ざっしょう)」と呼ばれる事務や経営に堪能な専門家に請け負わせていました。
彼らの多くはその実務能力を買われて任用された中央下級官人で、中央で年貢・公事を代納しながら、都鄙間を往復して年貢徴収などの荘務にあたりました。
彼らは、国衙の目代(代官)や国雑掌(諸国の役人)などをつとめる人物が多くいました。これは、中世荘園が国衙領を含み込んでいたので、年貢・公事や一国平均役などの国衙の官物納入の義務も負っていたことから、荘園と国衙の業務双方に通じた人材が求められたからです。
沙汰人や雑掌の中には、その利潤を元手に借上(かしあげ)などの金融業を行う者もおり、鎌倉後期~室町期には、商人や金融業者などの新興勢力が沙汰人・雑掌の担い手になっていき、荘園経営に大きな影響力を及ぼすようになっていきます。
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