初期室町幕府の政治は、尊氏と直義の二頭体制によって行われました。実際は、直義の主導で幕政が運営されますが、足利家執事の師直らを中心とする派閥と対立を深めるようになります。
直義は戦争を抑止することで旧鎌倉幕府の秩序を取り戻そうとし、師直は戦時体制の中から新たな秩序を築こうとしていたといえます。
後醍醐天皇が没したあとの約8年間は大規模な戦争は畿内周辺では行われず、直義の声望は上昇し、師直勢力は落ち目にありました。
ところが、1347年(貞和三年)8月に楠木正行を総大将とする南朝軍が行動を起こすと、幕府軍は師直・師泰兄弟によってこれを撃破します。
師直の声望はに急激に上がり、直義と師直の対立は激しさを増します。この直義・師直の抗争は、やがて直義・尊氏の抗争に変わって幕府は分裂。これに、南朝が加わって「三つ巴」の様相。さらに合従連衡が行われることで、「何が何だかわけがわからない」観応の擾乱に突入していきます。
今回は、観応の擾乱が始まる前の直義と師直の動きに着目しながら、幕府の新しい胎動について見てみましょう。
直義の先制攻撃
1349年(貞和五年)閏6月、直義側近の畠山直宗・上杉重能らは、直義の信任を得ていた大休寺(京都一条戻り橋近辺にあった寺院)の僧妙吉をそそのかして、直義に師直・師泰排斥の進言をさせます。
妙吉の進言を受けた直義は、同月30日に持明院殿へ参内し、光厳上皇の院宣によって師直・師泰の罷免しようとしました。この事態に尊氏は押し切られた形になり、翌7月に師直の朝廷出仕が止めて、執事職を罷免します。直義派による師直派への先制攻撃でした。
師直のクーデター
しかし、尊氏は師直の後継として、師直の甥師世(もろよ)を執事職に任命します。直義の先制攻撃は尊氏によってはぐらかされました。
当然、「頭にきた」であろう師直は、直義に対抗するために自らの武力を誇示する作戦に出ます。同1349年(貞和五年)8月、師泰は騎馬3千騎と歩兵7千を率いて河内を出陣し京都に入ります。京都市中は騒然とした状況となりました。
8月14日、師直・師泰は軍勢を集結して法成寺を本陣とします。法成寺といえば藤原道長の栄華を示した寺院として有名ですが、吉田兼好の徒然草によれば、この頃には丈六(一丈六尺=4.85メートル)の仏像9体と法華堂のみが残る程度の寺院に落ちぶれていたようです。
さて、激怒する師直に身の危険を感じた直義は、尊氏邸に逃げ込みます。さすがの師直も、将軍には手出しはできないと直義は考えたのでしょう。
しかし、師直軍は尊氏邸を包囲し、師直排斥の中心人物だった直義の側近上杉重能・畠山直宗・妙吉の身柄引き渡しを求めます。
師直軍には、千葉・宇都宮以下の多数の有力武将が加わっていましたが、直義援護のために尊氏邸に駆けつけたのは評定衆や奉行らで、その兵力は師直軍の半分以下だったといいます。
師直派
仁木頼章、仁木義長、仁木頼勝、細川清氏、細川頼春、吉良満義、山名時氏、今川範国、今川頼貞、千葉貞胤、宇都宮貞宗、宇都宮蓮智、土岐頼康、佐々木(京極)道誉、佐々木(六角)氏頼、武田信武、小笠原政長、高一族など
直義派
石塔頼房、上杉重能、上杉朝房、畠山直宗、石橋和義、南宗継、大高重成、島津光久、須賀清秀、斎藤利泰など
師直は、尊氏邸に「火を放つ」と威嚇します。
尊氏は「主人が譜代の家僕の強要に屈するは天下の恥辱。あくまで言い張るならば、兄弟いっしょに切り死にするまで」と言い放って、師直を慌てさた一幕があったといいます
大騒ぎになったものの武力衝突に発展しなかったことから、太政大臣の洞院公賢(とういんきんかた)は、尊氏と師直がすでに内通していたのではないかと日記に記しています。
結局、尊氏の調停によって直義と師直の和解が成立しました。
和解の内容は、
- 上杉重能・畠山直宗は師直に引き渡さず、流罪に処する(妙吉はすでに逃亡)。
- 直義は幕政統括者の地位を尊氏の嫡子義詮に譲る。ただし、義詮を助けて政務をみる。
- 師直は執事に復帰する。
という内容でした。
このように、諸大名が大軍をもって将軍邸を包囲し、政治的要求を行うことを「御所巻」と呼ばれ、室町幕府独自の特徴となります。鎌倉幕府にも江戸幕府にも、このような風習は見られません。
義詮の上洛
とりあえずの和解によって、直義は窮地を脱しました。直義は、義詮に地位を譲って政務を補佐するはずでしたが、10月に義詮が鎌倉から上洛すると、師直の圧力に屈して事実上政務から引退し、恵源と号して出家します。
10月22日、義詮は東国武士を多数率いて鎌倉から上洛します。大勢の京都市民がこれを見物し、桟敷が設置され、貴族の牛車も並ぶほどの賑やかさだったと伝わります。
師直に身柄引き渡しを要求されていた上杉重能・畠山直宗の直義近臣は越前に流罪の上、配流先で殺害されました。
直義が養子としていた直冬は、中国探題として備後の鞆(広島県福山市)に赴任していましたが、尊氏から討手を差し向けられて九州へ逃れることになります。
直冬は尊氏の庶子ですが、なぜか父尊氏に忌み嫌われて仏門に入る予定でした。しかし、叔父直義に拾われて養子となった人物です。1349年(貞和五年)4月、山陰・山陽八ヶ国を管轄する中国探題として備後の鞆に赴任していたのでした。
尊氏・師直派が勝利したことによって、嫡子義詮に幕政が継承される道筋が示された一方、この騒動に敗れた直義派は幕政から追放される形となったのでした。
むすび
直義と師直の和解によって、幕府の分裂は阻止されたかに見えましたが、対立は一瞬封じ込められただけで、「観応の擾乱」として再び噴き出すことになります。
しかし、この直義と師直の対立を利用して、尊氏は幕府権力の継承に向けて重要な布石を打っていました。
嫡子義詮の上洛です。義詮が、直義にかわって一定の役割を占めるようになると、義詮の位置づけが重くなります。直義と師直の対立激化の一方で、義詮は二頭政治を克服する将軍として期待されていたのです。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。
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