1311年(応長元年)12月6日、まだ9歳という幼い高時を残して病に伏していた貞時は、臨終に際して御内人の長崎高綱と安達時顕に後をたくして死去します。享年41歳。戒名は最勝園寺殿覚賢。
北条貞時は永仁の徳政に失敗して以降、寄合にも出席しなくなり、酒浸りの日々を送っていたと伝えられますが、幕府の政治は得宗貞時なしでも機能していたようです。得宗の被官である御内人が、実質的に幕府を動かしていたからでした。
長崎高綱と安達時顕
得宗執事(内管領)となっていた長崎高綱はすでに出家していて、円喜(えんき)と名乗っていました。長崎氏は平禅門の乱で滅亡した平頼綱の一族です。
→平禅門の乱
一方で安達時顕は、のちに娘を高時に嫁がせて得宗の外戚となります。時顕は霜月騒動で滅亡した安達泰盛の一族です。安達氏が代々継承してきた秋田城介にもなっています。
→霜月騒動
このように貞時が後をたくした2人は、ともに貞時時代に討たれた一族です。
なぜ、討たれた一族が短期間にもとの地位に復活したのでしょうか?それは、貞時没後の鎌倉幕府では、形式こそが実質だったからと考えられています。
どういうことかというと、貞時の子高時は7歳で元服し、14歳で執権となって、15歳で相模守となっています。これは祖父時宗、父貞時とほぼ同じ昇進時期にあたります。高時の時代は、得宗としての実質や能力よりも、これまでの先例が重視されたといえます。特に先例とされたのは時宗の経歴でした。
得宗を支える被官や御家人についても、時宗・貞時の時代は得宗家執事(内管領)と侍所所司は平頼綱で、時宗の外戚は安達泰盛でした。この体制を先例としたのでしょう。
このような背景から、得宗執事を平頼綱の一族の長崎高綱(円喜)、高時の外戚として安達時顕が復権することになったのです。
かつて時宗没後に対立した安達氏と平氏(長崎氏)の2つの勢力は、貞時没後は得宗高時を支える存在となりました。
このように、時宗の時代をそっくりそのまま真似るのはどうなの??と思ってしまいますが、これはおそらく現代人の感覚でしょう。
日本中が騒々しくなっていく中で幕府の威信を示すには、幕府最盛期の時宗のやり方を踏襲することこそが最善と彼らは考えたのかもしれません。
嘉暦の騒動
1326年(嘉暦元年)3月、北条高時は病のため出家して執権を辞任しました。そして、それまで連署だった金沢流北条貞顕が執権に就任します。
このとき、高時の弟泰家は自分が執権になるものと思っていたようで、金沢貞顕の執権就任という「予想外」の出来事に泰家とその生母大方殿は腹を立てて、泰家は出家するという事件が発生しました。
得宗の弟泰家の報復を恐れた貞顕は、就任して一ヶ月もしないうちに執権職を辞任します。そして、4月下旬になってようやく一番引付頭人であった赤橋流北条守時が執権となりました。連署には越訴頭人だった大仏流北条維貞が就任しています。この一連のできごとを嘉暦(かりゃく)の騒動と呼ばれています。
執権の就任も先例主義
先ほど、泰家が執権になれなかったのでへそを曲げて出家したという話をしましたが、ここにも幕府の先例主義が見えます。
そもそも、義時以来、得宗の存命中に得宗の弟が執権となった例はありません。北条時頼が執権に就いたのも、兄経時が没してからです。ですから、得宗の弟の泰家が執権となる可能性はほとんどありませんでした。
もし得宗の存命中に、その弟が執権となれば、退任後には得宗が二人いることになります。それでは得宗家が分裂してしまう可能性もあったわけです。
ですから、幕府のあるべき姿を考えれば、得宗の存命中にその弟が執権になることは認められなかったと考えられます。
元徳の騒動
1331年(元徳三年)秋、29歳となっていた高時が、長崎高綱の子高資の討伐を計画したと言われています。事件の詳細はわかっていません。ただ、この頃には高資は得宗家執事(内管領)となっていたと考えられ、さらに御内人が就任することはなかった評定衆にも選ばれています。得宗家を脅かしかねない高資の排除を高時は計画したとしてもおかしくありません。
ところが、計画が発覚すると高時は何も知らないと無実を主張したそうで、謀反を企てたのは長崎高綱(円喜)の弟で、高資の叔父にあたる高頼らということにして彼らを配流としました。この一連の出来事は、元徳の騒動と言われています。
事件の詳細は不明ですが、内管領高資の頃には得宗の意志が幕府政治に反映されなくなっていたようで、得宗は将軍と同じく形だけのものとなっていました。
一般的に、高時や父貞時の頃を得宗専制時代といわれますが、高時の頃には得宗個人の考えが入る余地はほとんどありませんでした。得宗執事(内管領)を排除することさえも出来ないまでに無力化していたのでした。
諸勢力のバランスの上に運営される幕府
北条時宗死後、幕府は様々な勢力が微妙なバランスの上で成り立っていたと思います。
安達泰盛のような得宗の外戚という立場は、霜月騒動で敗れました。平頼綱に代表される得宗家執事(内管領)の立場も、平禅門の乱で敗れます。
北条宗方に代表される得宗の近親者の立場もまた嘉元の乱で敗れ、この時には北条庶子家で連署までつとめた北条時村も殺害されています。
嘉暦騒動では、北条庶子家の代表のような家格の金沢流の貞顕が1か月で執権辞任に追い込まれます。
さらに、北条高時のような得宗の立場も元徳騒動では事前に動きを封じられました。
鎌倉時代前期のようにどれかの勢力が滅亡することはなく、それぞれの勢力が微妙なバランスを保ちながら先例主義によって幕府運営がなされていたのが鎌倉末期の幕府の姿といえるでしょう。
このことが幕府の変化への対応能力を低下させ、後醍醐天皇らの反幕府勢力によって瓦解されていくのです。
参考文献
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