いわく付きの元号だった「建武」の由来

建武の新政
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「平成」から「令和」へ。新しい時代の到来を国民全員でお祝いした感のある今回の改元。

「昭和」から「平成」への改元は、昭和天皇の崩御をもって行われましたので、哀しみいっぱいでしたが・・・。

改元をお祝いさせていただいた上皇様には本当に感謝しかありません。

そんな祝賀ムード一色の改元から1ヶ月以上が経ちましたので、当サイトも遅ればせながら改元についてのお話をさせて頂こうと思います。

その年号は当然「建武」。

その前に、日本ではどのようにして元号が決められてきたのか、いろんなメディアやサイトで紹介済みですが、改めて当サイトでもご紹介いたします。「建武」という元号が「いわく付き」だったことの予備知識としてお読みくださいませ。

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元号の雑学

元号の意味合い

日本の元号は、孝徳天皇の「大化」にはじまります。その後、陸奥に黄金が出ると「大宝」と改元し、美濃に醴泉(れいせん:甘い水)が発見されると「養老」と改元するように「吉事」を動機とする改元が多かったのです。

ところが、平安時代の中頃になると流れが変わります。

中国の予言者が陰陽五行説から考え出した「辛酉(しんゆう)革命説」という説が日本に入ってきます。辛酉革命説とは、辛酉の年に国家を揺るがす不吉な事件がおこるという説です。(難しいので詳細はこちらで)

901年(昌泰四年)、漢学者三浦清行は辛酉革命の年にあたるとして醍醐天皇に改元を進言します。それを受けて醍醐天皇が「延喜」と改元しました。

これ以降、辛酉・甲子(かっし)にあたる年、災害・疫病・戦乱が多くなった年は、それらを避ける願い込めて元号が選定されるようになります。

たとえば、疫病が流行すれば「延長」と改元し、大火があれば「応和」と改元。保元の乱のあとに「平治」、その平治に戦乱があったとして「永暦」、平家滅亡のあとに「文治」と改元したりしているわけです。

現代ではこのたぐいの説は迷信として議論の余地もありませんが、当時は元号に災害などを除く力があると信じられていたのです。

この迷信は儒教の天命思想が影響しているらしく、天変地異や戦乱は天皇などの為政者に対する天の警告と見なし、為政者は自らを省み、天変地異を避けるために改元という方法を取ったと言われています。

元号の選び方

元号の選び方は古来の慣習があります。たとえば、『老子』の「天長地久」から「長久」を選び、『晋書』の「建久安於万歳」から「建久」を選ぶというように、中国古典の文章からよい文字を選び出しています。

ちなみに、「昭和」は『書経』の「百姓昭明、協和万邦」、平成は『史記』の「内平外成」と『書経』の「地平天成」が由来で、いずれも古来の方式に従った選び方です。

令和は、日本の国書『万葉集』の歌からとった元号で、元号史上初の選び方というわけです。

わが国の元号史上、前例のない選び方で改元をしたのが後醍醐天皇です。

建武の由来

鎌倉幕府が滅亡するという歴史的事件が起こった1333年(元弘三年)は終わり、新しい年を迎えた後醍醐政権。後醍醐天皇は新しい時代の到来を人々に知らせるべく改元を行います。

1334年1月29日に「建武」と改元されました。

天皇や朝廷から政権を奪った「ドロボー鎌倉幕府」を倒して、王朝を復興した偉業を的確に表現する文字を用いることで、親政の意義を天下に示したいというのが後醍醐天皇の考えだったようです。

彼は「撥乱反正(乱をおさめて正にかえす)」の意を表現する年号を、中国の年号から探してを採用することを指示しました。この指示に基づいて藤原藤範・菅原在登・菅原在淳ら、明経道(儒学)・文章道(漢文学)の学者が選び出したのは「建武」「大武」「武功」でした。

そして、その中から「建武」が採用されます。建武は西暦25年に光武帝が、前漢を乗っ取った王莽(おうもう)を滅ぼして漢王朝(後漢)を復興したときの年号です。

後醍醐天皇の先例を無視した元号の選び方は、「建武」が最初ではありません。

即位4年目(1321年)に「元亨」に改元していますが、これは辛酉革命を否定する意味で改元しています。即位七年目(1324年)の「正中」への改元では甲子革命を否定して、どちらも徳政などの他の理由によって改元しています。

ということは、後醍醐天皇は敬愛してやまない「醍醐天皇時代に始まった辛酉革命、村上天皇時代に始まった甲子革命」を自ら否定したのです。

後醍醐天皇のかかげる「延喜(醍醐)・天暦(村上)の盛代にかえれ」というスローガンが、額面どおりのものではないことを示しているのです。

元亨への改元の経緯を伝える当時の記録によると、この時の改元定(公卿の会議)が2月23日戌の刻(午後八時ごろ)から翌日午の刻(正午ごろ)までかかりました。

後醍醐天皇の先例無視に対しては相当に強い批判があったのです。

建武への改元は、文字の選び方が先例と違うばかりでなく、「武」という物騒・不吉な文字を採用することから、より強い反対があったと伝わります。

後醍醐天皇の信任のあつい廷臣一人である大蔵卿平惟継はこのとき、後醍醐天皇に向かって「『建武』を採用すれば、必ずや乱がおこりますよ!」とダメ押ししたそうです。

そして、翌年の1335年(建武二年)8月。平惟継の忠告どおり、足利尊氏は建武政権から離脱し南北朝時代が始まることになったのでした。

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文書。

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