建武の新政は、その急激な改革によって武士を中心に多くの人々を混乱に陥れました。改革の副作用というべきものです。
後醍醐天皇が行おうとした改革は「悪い」とは言えないものも多くあります。「利権構造にメスを入れよう」とする点は評価されるべきものでしょう。
しかし、長期にわたる戦乱と飢饉によって疲弊した人々に、後醍醐天皇の急進的な改革に耐えうる体力は残されていませんでした。
二十分の一税
後醍醐天皇は、元号を建武と改めると同時に、1219年(承久元年)に火災で焼け落ちて以来、再建されていなかった大内裏造営計画を発表しました。大内裏とは天皇の住まい、皇居のことです。
大内裏再建の財源を確保するために、2つの方策を発令します。
- 安芸・周防の二国を料国としてそこからの収益を充てる。
- 全国の地頭・荘官らの収益の20分の1を再建に充てる。
という方針が出されたのでした。
このうち2つめの方策は、10月から実施され、全国の荘園・所領から年貢や進物などの1/20が納められることになりました。
当然、この課税に対して現地からの反発をもたらします。
若狭国では、実際の徴収にあたった守護代に対して、地頭や百姓らが年貢などを奪い取るなどのトラブルが続発したことが記録されています。
後醍醐天皇の大内裏造営計画にともなう新たな税の賦課は、領主から農民に転嫁されたことによって新たな火種が在地社会にくすぶるようになったのです。
大内裏造営は、飢饉や元弘の乱で疲弊した人々をさらに苦しめていくことになったのでした。
二条河原落書
此の頃都ニハヤル物、夜討・強盗・謀綸旨 召人早馬虚騒動 生頸還俗自由出家 俄大名迷者 安堵恩賞虚軍 本領ハナルル訴訟人 文書入タル細葛 追従讒人禅律僧
このごろ都にはやっているものは、夜襲・強盗・ニセの天皇の命令。囚人・急使を乗せた早馬、たいしたこともないのに起こる騒動。
生首が転がり、僧が俗人に戻り、俗人が勝手に僧になり、急に低い身分から大名になるものがいるかと思えば、路頭に迷う者が出てきて、領地の保護や恩賞を得るために、架空の戦争がつくられもする。
領地を離れて裁判を起こしに京都に上った人は、証拠の文書を入れた小さなつづらを背負って、こびへつらい、人の悪口を言い、禅宗や律宗の僧に紹介を頼む。
建武政権時代の京都は治安が悪化し、騒然としていたことがうかがえます。また、人々は現在保有している所領を安堵(保証)してもらったり、所領を奪い返そうとして、手段を選ばず自分の意見を押し通そうとしていることがわかります。
下剋上スル成出者 器用堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所 キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ笏持テ 内裏マシワリ珍ヤ
下克上する成り上がり者、才能や器量を無視した人事、雑訴決断所にはあらゆる階層の人々が入っている。着つけない冠をつけ、持ちつけない笏をもって、宮中での、付き合いをする人々のおかしさ。
後醍醐天皇の先例を無視した人事への厳しい批判です。
町コトニ篝屋ハ 荒涼五間板三枚 幕引マワス役所鞆 ソノ数シラヌ満々リ 諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ 去年火災ノ空地トモ クソ福ニコソナリニケレ 適ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ
京都市中の警備のための篝屋は荒れ果て、多くの人々は定まった家もない。作りかけの家も多く、去年の火災で空き地になったところを見れば、禍福が思われる。たまたま残った家も、敵方の家であるとされ、また上京してきた武士の宿舎として強制的に差し押さえられてそのままとなっている。
かつて、鎌倉幕府が京都の治安を守るために設置した篝屋(かがりや)はなくなり、京都の町が荒廃している様子をうかがい知ることができます。復興の兆しが見えてきてはいるものの、武士たちが好き勝手にしていたようです。
二条河原落書は、後醍醐天皇の政治がいかに人々を混乱させ、苦しめたのかを如実にあらわしています。どれほど高邁な理想を掲げても、人々の支持がなければ政権を維持できないのは今も中世も同じだったのです。
護良親王のクーデター
人々が苦しむ一方で、政権内部では激しい対立が起こりました。
それは倒幕に大きな功績のあった後醍醐天皇の皇子護良親王と、足利尊氏との対立です。
護良親王は政権発足後、征夷大将軍に就任しますが、3ヵ月後に解任されてしまいます。それとともに、軍勢動員のために護良親王が出した令旨の効力もすべて無効となります。
護良親王は、倒幕の過程で自ら組織した武士団によって政権内部で実権を握ろうとしましたが、失敗に終わったのでした。
彼は兵部卿の地位にありましたが、それを用いて政権内部で実権掌握を目指すよりも、武威によって掌握することにこだわり続けます。
しかし、彼の思うようにはいかず、日々武士の支持を集めて声望を高める足利尊氏にその不満をぶつけていくのでした。
1334年(建武元年)6月、護良親王による尊氏打倒の噂が京都に流れ、尊氏は大軍をもって邸宅の守りを固めました。
さらに、護良親王は天皇の行幸に随行する尊氏を襲撃する計画を立てましたが、尊氏は大軍を率いて随行したので実現できませんでした。
これらの護良親王による尊氏排除の動きの背後には、後醍醐天皇が糸を引いていたとされています。
尊氏は、護良親王が自分を倒そうと画策していた責任を後醍醐天皇に問いただします。当然、天皇は護良親王の勝手な行動であると弁明しました。
1334年(建武元年)10月22日、護良親王は宮中の歌会のために参内したところを、結城親光・名和長年によって捕らえられます。
『太平記』や『保歴間記』によれば、護良親王が後醍醐天皇の帝位を奪うために、諸国の軍勢を召集し、謀反を起こそうとしたと記しています。
つまり、護良親王によるクーデター未遂事件というわけです。
結局、護良親王は宿敵尊氏に預けられることになりました。尊氏はその身柄を鎌倉に護送し、直義の監視下に禁固の身とします。そして、後に起こる中先代の乱の混乱の中で足利直義によって非業の最期を遂げることになります。
護良親王によるクーデター計画が、実際にあったかどうかはわかりません。
後醍醐天皇が尊氏と対抗するために護良親王を後で操りながら、最後に切り捨てたという説もあります。
そのため、護良親王には義経の伝説のように「生きのびた」説があります。
護良親王が内裏で捕らえられたとき、「尊氏より父が恨めしい」と言い放ったエピソードはその説を裏づけるものです。
この事件によって、尊氏の政治力は大いに増したと考えられます。
尊氏は自身の最大のライバル護良親王を打倒するとともに、後醍醐天皇に対しても優位性を持つことになったのです。
軍事的にも政治的にも尊氏は独走態勢に入りつつあったのでした。
西園寺公宗の反乱
後醍醐政権発足後、各地で反乱が起きていました。
北九州では、北条一族である旧肥後守規矩(きく)高政や旧豊前守護糸田貞義が挙兵しますが鎮圧されます。
また越後では、小泉持長・大河将長が挙兵し、新田義貞により鎮圧されました。
紀伊では六十谷(むそた)定尚が挙兵しましたが、楠木・足利軍によって鎮圧されます。
いずれも、北条氏が守護職をもっていた国で起こり、北条一族や北条方に属した武士たちの反乱だったのです。
そのような中で、1335年(建武二年)6月、大規模な反乱計画が発覚します。
その首謀者は権大納言西園寺公宗で、廷臣の橋本俊季・日野氏光らと謀り、持明院統の後伏見上皇を奉じて、後醍醐天皇を討つという計画でした。
西園寺家は承久の乱以後、幕府・北条氏と強い結びつきを持ち、朝廷内部で大きな力を持っていました。
鎌倉後期には関東申次という朝廷幕府の関係を取り持つ役職を世襲します。幕府滅亡後は、後醍醐天皇によって朝廷の官位のみならず知行国も奪われるなど悲惨な状況にさらされていました。
したがって西園寺公宗は、自身の権力回復のために後醍醐天皇への反乱を企てたと考えられています。
しかも公宗は、北条高時の弟である時興(泰家から改名)をかくまっていました。
旧北条氏勢力と一部の公家が結びついて持明院統の上皇を担ぎ出し、軍事的に後醍醐天皇を倒すという、後醍醐天皇にとってはショッキングな反乱計画だったのです。
この計画は、公宗の弟公重の密告から漏れることになりました。
6月17日には後伏見上皇や花園・光厳上皇は持明院から京極殿に移され、22日には公宗らは捕らえられます。
公宗は出雲へ配流と決まり、8月に配流の道中で名和長年によって殺されました。
南北朝時代へ
事件はいったん終わったかに見えましたが、ここから反乱は大きく拡大します。建武政権の崩壊と南北朝時代という約60年にもわたる内乱の時代へつながっていくのです。
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