木曽義仲の息子義高と宮菊から見える北条政子

源頼朝
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北条政子は、日本三大悪女とか言われていますが、『吾妻鏡』を読む限りなぜ悪女になったのかさっぱり理解できません。

悪女が「尼将軍」と称されることもないでしょうし、御家人がついてくるはずもありません。北条政子の人柄を『吾妻鏡』から見ていくシリーズ?今回は志水(木曽)義高、宮菊から見てみましょう。

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木曽(志水)義高

義高誅殺事件

政子には、頼朝の間に二男二女をもうけましたが、その第一子は長女の大姫でした。

大姫は1178年(治承二年)に生まれましたが、政子が大姫を懐妊したことによって、頼朝と懇意にしているのが父時政の知るところとなりました。

平家に知られると「何かと面倒になる」と考えた時政は、政子を自邸に閉じ込めますが、政子は脱走して「暗夜に迷い深雨を凌ぎ」頼朝のもとに逃亡しました。

そんな政子の情熱に負けた時政は、渋々頼朝との結婚を認めますが、これが北条氏の家運を大きく向上させることはこの時知るよしもありません。

大姫は成長してのち、源氏一族で木曽義仲の息子の木曽(志水)義高と婚約します。と言ってもまだ6歳。

義高は、1183年(寿永二年)から鎌倉の頼朝の下に「客人」という名の「人質」に置かれていました。

その経緯は、木曽義仲は以仁王に応じて挙兵し、1181年(養和元年)以後東山道・北陸道を平定しましたが、平家と頼朝に挟まれる形になったことから、義高を人質として頼朝方に送り、1183年(寿永二年)に頼朝と和睦していたのです。

 

 

『吾妻鏡』は、義高を頼朝の「婿」としていますが、「婿」となるべき人というのが正解です。まだ、結婚していませんので。

1184年(元暦元年)、その義高に災難が降りかかります。

頼朝と和睦した義仲は、平家軍を破って頼朝に先んじて入京し、伊予守に任じられました。

しかし、後白河上皇と対立したことで、勅勘(天皇の怒り)を被って朝敵となったことから、1184年(寿永三年)1月、頼朝に派遣された源義経・範頼軍に敗れて近江粟津で戦死します。

その義仲の死後からわずか3カ月後。頼朝は、義高の誅殺を近臣に命じました。しかし、大姫付きの女房たちがこのことを聞いて、密かに大姫に知らせます。

大姫や女房たちの計らいで、女房の姿に変装した義高は、女房たちに囲まれて逃亡に成功しました。身代わりの海野幸氏が平然と義高のように振舞ったといいます。

ところが、夜になって事は露見。頼朝は烈火のごとく怒って、堀親家以下の軍勢を派遣し探索にあたらせました。大姫は動揺し「魂を消す」思いをしたと『吾妻鏡』は記しています。

5日経って、堀親家が鎌倉に戻り、義高を入間河原で誅殺したことを頼朝に密かに報告しました。

このことを漏れ聞いた大姫は、悲しみのあまり飲食を自ら断ってしまいます。6歳でそのような行動に出る大姫は政子の血を多分に引き継いでいたのでしょう。

政子は大姫の心中を察して、たいそう心を痛め、源家に仕える多くの者が嘆き悲しんだと、『吾妻鏡』は伝えています。

頼朝に並ぶ権力者政子

5月1日。頼朝は、義高の同族・従者たちが隠れている甲斐・信濃等の国で、反乱が起こるとの噂があるとして軍勢の派遣を決定します。

足利義兼と小笠原長清を甲斐に、小山・宇都宮・比企・河越・豊島・吾妻・小林を信濃に向かわせ、さらに、和田義盛と比企能員に対して、相模・伊豆・駿河・安房・上総の武士を引き連れて10日に出陣するように命令を下しました。

2日には、諸国から御家人が集まり、早くも鎌倉は人であふれかえります。

頼朝は義高誅殺の理由を、「義仲は勅勘を被って誅殺された。だからその子としてその意趣は計りがたい」としています。

つまり、義高がはっきり頼朝に反逆したわけでなく、「将来反逆するかもしれない」という理由で殺害し、義仲残党を一掃して甲斐・信濃の所領を完全掌握したのです。

しかし、事態は思わぬ方向に展開します。

6月27日、義高を殺害した堀親家の郎従がさらし首に処せられたのです。

『吾妻鏡』は「御台所の憤りによって」と記しています。

この「さらし首に処す」との命令は頼朝が出したものですが、処罰を頼朝に迫ったのは政子でした。

この政子の態度の背景には、義高が殺害されて以来、大姫が病に伏し、日に日に憔悴している事があげられます。

『吾妻鏡』によれば、「志水(義高)の誅殺によって大姫が病気になったが、それはひとえにこの男(堀親家の郎従)の不義から起こっている。たとえ頼朝から殺せという命令が下されていたとしても、どうして内々に姫君方へ子細を伝えないのか」と政子は怒ったので、頼朝は言い返す術がなく、この男を「斬罪」に処したと記しています。

政子は、たとえ鎌倉殿の命令であっても、大姫が病に至るかもしれない命令であれば、政子や大姫に相談すべきで、それをしなかった堀親家の郎従は「不義」であると言っています。

この理屈に対して、頼朝は言い返すことができなかったことから、やはり政子は鎌倉殿と同列の存在だったことがわかります。

政子は、亀の前事件では伏見広綱を流罪に処し、志水義高の事件では堀親家の郎従を斬罪に処しています。もちろん、命令を下すのは頼朝ですが、御家人に対して強い権限を有していたことがわかる話です。

 

 

宮菊

木曽義仲には妹(娘とも)がいました。名前を「宮菊」といいます。

兄・義仲が頼朝軍によって敗死し、甥の義高も謀殺されるという不幸な境遇に見舞われたこの姫を、頼朝・政子夫妻は猶子(ゆうし)にしていました。

猶子とは、財産相続を伴わない養子関係のことで、貴族や武家では当たり前に行われていました。財産は分け与えないが、親子としての愛情を注ぐという関係です。

宮菊は、頼朝・政子夫妻と猶子関係とは言え、美濃に住んでいました。

1184年(文治元年)、宮菊は京都に上ります。

この時期は、平家・木曽氏・源家と政権を握る者が目まぐるしく変わっていました。

そのような状況ですから、宮菊を利用しようとする者たちが当然現れてきます。

その者たちは、すでに効力を失っている土地の権利書をもって、実際は支配していない土地を宮菊に寄進します。そして、宮菊の「使節」と称して、王家・摂関家の荘園などを横領していたようです。

その噂は関東にも聞こえていたので、世間では宮菊のことを「物狂い女房」と言っていました。

朝廷は、頼朝に宮菊を「何とかするように」命令を出してきたことから、頼朝もこの状況を放置できなくなりました。

1185年(元暦二年)3月、頼朝は宮菊の「濫吹(らんすい : 法に依らない乱暴)を停止させ、宮菊に従う者を捕らえて関東に連れてくるように、在京御家人などに命じます。

一方で、頼朝は宮菊を哀れに思ったらしく、内々に関東にやってくるように助言しています。

頼朝の要請に応じて、5月に宮菊は京都から鎌倉に下向してきました。

宮菊は鎌倉に下向することを決心します。頼朝が内々に招いていたからですが、その理由について『吾妻鏡』は「御台所に殊に憐れまれた」と記しています。

頼朝は宮菊のことを哀れみましたが、政子の方がさらに哀れんでいたので、宮菊の鎌倉下向が実現したようです。

頼朝・政子夫妻が、王家・摂関家の荘園を押領(横領)していることについて尋ねると、宮菊は「武士がたくさん所領を押領したというのは、全く知らないことです」と陳述しています。

それを聞いて政子は、「義仲は朝敵として討伐されましたが、宮菊は何の悪気もない女性であり、どうして哀れみをかけないでいられましょう」と述べ、頼朝は美濃国遠山荘内の一村を与えました。

政子は宮菊の境遇を哀れみ、早めに手を回して鎌倉での弁明の機会を持たせたようです。

この時代、頼朝は独裁者と化してきます。特に、お気に入りの源氏一族(足利、大内、平賀)以外を露骨に排除し始めていました。

その中にあって、女性とはいえ源氏の一員である宮菊を政子は保護しました。できることなら、義高も保護したかったことでしょう。

木曽(志水)義高・宮菊の件は、政子の情け深さがわかるエピソードとして『吾妻鏡』に記されています。

参考文献

田端泰子『北条政子』人文書院。

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源頼朝北条政子鎌倉時代
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