1336年(建武三年・延元元年)5月、建武政権は瓦解しました。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡につながる元弘の乱の混乱を収束出来なかったばかりか、急進的な改革でさらに混乱を誘発しました。
長きにわたる戦乱と飢饉によって、人々は疲弊しきっていたのです。
当時の人々が建武政権をどうみていたのかを知る手がかりとして、「二条河原落書」とともに率直な意見として知られるのが「顕家の諫奏」です。
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顕家の諌奏
「二条河原落書」は、後醍醐天皇から距離を置いた傍観者の立場で、1334年(建武元年)8月という親政の混乱まっ只中で記されたものです。そのリズミカルな表現と鋭い指摘から「日本落書史上の最高傑作」とも言われているようです。
一方の顕家の諫奏は、1338年(建武三年・延元五年)に顕家が最後の出陣に当たって後醍醐天皇に呈したものです。
1338年(建武三年・延元元年)5月15日付をの諫奏は、次の6ヶ条から成ります。
- 諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
- 官爵の登用を重んぜらるべき事
- 月卿雲客僧侶等の朝恩を定めらるべき事
- 臨時の行幸及び宴飲をさしおかるべき事
- 法令を厳にせらるべき事
- 政道の益なき寓直の輩を除かせらるべき事
1条の内容
「連年の戦争で疲弊した諸国の民を救うために、今後三年間租税を全免せられよ。謀叛人の没収地に新補した地頭に対しても賦課を減免せられよ」としています。
顕家がおもむいて統治した奥州において、後醍醐天皇の重税に対する怨嗟の声がいかに大きかったかをうかがい知ることができます。
新補地頭に対する賦課の減免の件では、若狭国太良荘(福井県小浜市)の話が有名です。
若狭の太良荘の百姓が、領主である東寺に提出した建武元年五月の訴状です。
この荘園の領家(所領の本当の持ち主)はもともと東寺で、地頭は北条氏でした。
幕府が滅亡すると、後醍醐天皇のはからいで地頭職は東寺に寄進されました。
すなわち、東寺は領家職・地頭職の両方を握ったということです。
その土地の支配は東寺に一本化されたわけですから、本来であれば、領家と地頭の二重支配から解放されるはずです。
東寺と北条氏の二重課税に苦しんできた農民たちは、東寺支配の一本化によって二重支配から解放されると喜んだようです。
ところが、課税が減らないどころか、新たに「名畠地子(みょうはたちし:畑にかける年貢)」までかけられたというのです。
農民たちの怨嗟の声は、直接東寺に向けられていますが、新規の賦課は東寺だけの裁量だけではなく、親政政府の方針も入っていたと考えられています。
2条の内容
「官位は才能と徳行にあるものに与えるべきである。功があっても才徳なきものには官位を与えず、土地を与えればよい。近年、資格のないものが官位を望み、ことに起家の族(成り上がり者)や武士が文官を希望し、これが許されている。みだりに官位を与えるのは僭上(せんじょう:身分をわきまえず差し出た行為をすること)の基である」と述べています。
参議に任ぜられた尊氏だけでなく、伯耆守・東市正になった名和長年や左中将になった新田義貞など、武家出身の新参者が官位を得て、宮中を闊歩するのが耐えられなかったのでしょう。
二条河原落書には、下記の皮肉が書き込まれています。
下剋上スル成出者 器用堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所 キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ笏持テ 内裏マシワリ珍ヤ
下克上する成り上がり者、才能や器量を無視した人事、雑訴決断所にはあらゆる階層の人々が入っている。着つけない冠をつけ、持ちつけない笏をもって、宮中での、付き合いをする人々のおかしさ。
3条の内容
「貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、元弘以来謀叛人から没収した地頭職は有功の武士に与えるべきである」と述べています。
先ほど述べた若狭太良荘のように、地頭職を寺院に寄進した新政への批判です。
「代々の貴族が不忠の咎によって、一家相伝の所領を没収されて、武士の恩賞にあてられる。これでは朝廷の政務をとり儀式を整備する者がいなくなるであろう」とあるのは、名和長年の「東市正」就任をさしています。
4条の内容
「遊幸・宴飲はまことにこれ国を乱す基なり。臨時の遊幸・長夜の宴飲は堅くこれを止め、深くこれを禁ぜられよ」と述べています。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕計画の時に見られるように、「無礼講」なるドンチャン騒ぎが大好きだったようです。
鎌倉幕府や六波羅探題の目を欺くためのドンチャン騒ぎならともかく、政治のトップに立ってからもドンチャン騒ぎを改めず、人々のひんしゅくを買っていたのでした。
後醍醐天皇は賑やかなのが好きだったと言うことですが…
5条の内容
「近頃、朝令暮改で、民は何に従ってよいかわからぬ。法令があってもおこなわれないのでは無きにしかず。民の心服を得るには法令を簡約にし、かつ不反なること汗のごとくにしなければならぬ」と述べており、綸旨の権威失墜に対する痛烈な批判を行っています。
6条の内容
「この数年来、貴族・武士・女官・僧侶の中に政務に容喙して親政を汚す者が多い。民は彼らを恐れて口を塞ぎ、目くばせして、暗に指弾の意を示す。このうわさは奥州の私のところにまで聞こえ、いたく私を悲しませた。すみやかにかかる輩を退けて、民衆が自由に話せるようにすべきである」と述べています。
そして、最後を「もし先非を改めず、太平の世に戻すことができなければ、私は帝のもとを辞して山林に隠る」と悲壮感ただよう痛烈な文章で結んでいます。
『太平記』が女謁の代表に挙げる阿野廉子。
「法勝寺の僧」と名乗っただけで、関所を守る武士たちが一斉に弓を伏せ、ひれ伏して通したと言われるほど「権勢無双」の円観。
家に巨万の財宝をたくわえ、宮中への往復には数百騎の武士を輿の前後に従えて、恩賞の斡旋は思いのままと伝えられる文観などが、顕家の指す政道無益の輩だったのです。
北畠顕家の価値観と後醍醐天皇の価値観
北畠顕家は、既存の支配者としての地位を回復して、家格門閥を維持することこそ、天皇親政にとって不可欠な前提だという立場に立っています。
これは律令制以来の天皇対貴族の対抗関係で、つまり両者相互にけん制し合う支配体制を温存することが大事という立場です。
この立場は父親房の『神皇正統記』『職原抄』にも貫かれていて、大部分の貴族もそう考えていたのです。
現代の私たちは、「天皇対貴族」という関係をイメージしにくいのですが、天皇の独裁を貴族が防ぎ、貴族の専横を天皇が制御するという関係が朝廷の中にあったのです。
しかし、後醍醐天皇の立場は明らかにこれと異なります。
後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。
顕家が指摘する名もない輩の抜擢や、武士の文官登用はそのための補充だったということです。
顕家の諫奏は、後醍醐天皇の失政の原因についてどんなに的を得ていても、後醍醐天皇が考えを変えない限り、馬の耳に念仏だったのです。
この直後、顕家は足利軍の攻撃によって討ち死にすることになります。
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