義詮が名実ともに幕府のトップに君臨したのは、尊氏が没した1358年(延文三年)から義詮が没する1367年(貞治6年)12月の10年間。
つまり、義詮政権は約10年だったわけですが、この間に幕府の有力守護たちは、将軍義詮を巻き込んで激しい政争を繰り広げました。1360年(延文五年)には、尊氏時代に幕府執事だった仁木頼章の弟義長が、1361年(弘安元年)に関東執事の畠山国清が没落します。
そして、国清の没落とほぼ同じころに幕府執事細川清氏が没落するのです。
細川清氏の武功
清氏の父和氏は、1335年(建武二年)8月の中先代の乱で足利尊氏に従って戦功をあげました。翌年2月に尊氏が九州に敗走したとき、一族の顕氏とともに四国に派遣され、四国制定に尽力しています。
和氏の子清氏は父の後を継ぎ、観応の擾乱では一貫して尊氏派として活躍します。その戦いぶりは猛将というにふさわしい活躍で、のちに義詮の執事に抜擢される要因となったようです。
仁木義長との確執
豪勇の武将と言われた細川清氏は将軍義詮の信任を受け、仁木頼章の後の執事に就任しました。しかし、清氏にも政敵が多くいて、その筆頭が仁木義長でした。二人はかつて伊賀守護職をめぐって激しく対立しました。
守護職をめぐって対立する背景には、南北朝の長い動乱の中で反幕府勢力に対抗するために、尊氏は足利方の有力武将を次々と守護に任命し、国人とよばれた在地勢力層を取り込ませて、強固な基盤を築かせようとしました。
守護は、大きな権限を将軍から与えられていたので、それぞれが強大化していきました。そのために各守護が自立的な傾向をもちはじめ、また守護職をめぐって争うという事態になっていたのです。
清氏と義長の不和は有名で、清氏の土地に義長が屋敷を無断で建てたことから二人が洛中で合戦におよびそうになったことがあります。尊氏・義詮父子がみずからこれを説得して止めましたが罰することはできませんでした。守護の力は強くなっていたのです。
康安の政変
仁木義長の失脚によって、執事細川清氏の政権が確立するかにみえた幕府ですが、そう簡単にいきません。
清氏は、義詮の信任を得て執事の職にあったことから、当初は将軍との関係は良好だったのですが、義長追い落としの手法が強引(つまり、敵対関係になってしまった)だったことや、驕慢な清氏の行動を忌み嫌うようになり、清氏打倒を画策するようになったといいます。
1361年(康安元年)9月23日、義詮が突然行方をくらまします。しばらくして、義詮は後光厳天皇を奉じて新熊野(京都市東山区)の今川範国の屋敷に姿をあらわし、清氏討伐の軍勢を召集しました。義詮は仁木義長のときのように、自身がさらわれることを警戒して先手をうったのでした。清氏は自身の守護国の若狭へ逃れ、義詮は将軍邸に戻ります。清氏は京都を追われたのでした。これを「康安の政変」と呼びます。
清氏失脚は佐々木道誉の策略であると『太平記』は記しています。石清水八幡宮に清氏が納めた願文に「天下を取らせ給え」という文言があったことから、これを知った道誉が伊勢貞継を通して義詮に注進したことで、義詮から逆心の疑いをかけられたとしています。
清氏の専横をこころよく思わない大名たちによって義詮が動かされたという説と、清氏追放の首謀者は義詮自身であるという説があります。もっとも、佐々木道誉は間違いなく「クロ」でしょう。
今川範国の子貞世(了俊)がのちに記した『難太平記』には、義詮が今川範国に、息子の貞世は清氏と親しいから、上洛させて清氏と刺し違えさせよ。そうすれば、多くの武士を失わずに目的を達成することができると述べたといいます。命を受けた貞世が京都に向かっている間に清氏は失脚しました。
清氏、南朝に下る
自身の守護国若狭に逃げた清氏は軍勢を整え、討手として越前から派遣された斯波高経の軍勢に敗れて近江坂本に逃れ、さらに宇治を経由して、吉野の南朝に下りました。わずか50騎の兵しかいなかったと言われています。
そして、吉野に落ち延びて南朝に下りました。
有力な武将を次々と失っていた南朝に、仁木義長・細川清氏という幕府の有力武将が降りてくるという、南朝軍にとっては思ってもみない展開になったのです。
1361年(康安元年)12月に、清氏の提案によって楠木正儀を総大将として攻め込み、義詮を近江に追い落とします。南朝軍にとって、4度目の京都奪還で、義詮は4度も京都を奪われたことになります。しかし、これもつかの間のことで義詮はすぐに京都を奪回。これ以後は南朝による京都奪回はありません。
清氏の提案があったとき、正儀は「京都を奪うだけならば自分ひとりでできるが、再び取り返されるのは必至」と反対意見を述べますが、後村上天皇ら皇族・公家たちは「京都が恋しいので、一夜でいいので京都に戻りたい(超訳)」と言ったことから、京都攻撃が決定したと伝わります。
>>>南北両軍、1度目の京都奪回戦
>>>南北両軍、2度目・3度目の京都奪回戦
義詮は4度も京都を奪われたので、後世からダメ将軍のレッテルを張られたりしていますが、京都は攻めやすく守りにくい地形です。
楠木正成は、後醍醐天皇に京都を守る不利を説き、九州から攻め上がってくる尊氏に対抗するために比叡山に退くことを進言しています。無視され、湊川の戦で散りますが…
義詮も京都防衛の難しさを承知していたのでした。
したがって、京都を占拠した南朝軍も、義詮に攻められるとあっけなく敗北しています。
清氏の最期
清氏は、1362年(貞治元年)に一族の地盤である四国に渡り国人勢力をたのみとして再起をはかろうとしました。
しかし、そこに待ちうけていたのは、清氏追討の幕命をうけた従兄弟の細川頼之でした。この年の7月、清氏は頼之によって討たれ、あえない最期を遂げました。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文書。
山田邦明『日本中世5~室町の平和』吉川弘文館。
平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』星海社。
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