1281年(弘安四年)、鎌倉幕府は元軍による侵略を防ぎ止め撤退に追い込むことに成功しました。
文永の役記事
弘安の役記事
翌年の1282年(弘安五年)、執権北条時宗は南宋出身の僧侶の無学祖元(むがくそげん)を迎えて、鎌倉に円覚寺を建立します。元寇による戦没者追悼のためでした。
1284年(弘安七年)4月、未曾有の国難に立ち向かった執権時宗が没します。享年34歳。戒名は宝光寺殿道杲。あまりにも早すぎる死でした。
得宗北条貞時、執権に就く
1284年(弘安七年)7月、嫡男貞時が執権となります。まだ14歳。連署は引き続き北条業時が担当しています。
まだ蒙古襲来の危機が冷めやらぬ中での就任です。
そして、時宗とともに幕政を主導した3人のうち、北条政村や金沢流北条実時はすでに没していました。
残っていたのは安達泰盛ただ一人。その泰盛も時宗の死によって出家します。
しかし、得宗で執権の貞時はまだ14歳ですから、実務を行える年齢でもなく、経験もありませんでした。
父の時宗の場合、貞時と同じ14歳に「幕府デビュー」しますが、まずは連署に就任し経験を積んだあと、18歳で執権に就任しています。
北条時宗の執権に就くまでの記事
父時宗とは違って、いきなり執権に就任することになった貞時を補佐するために、時宗時代の幕府首脳で、唯一生き残っている安達泰盛が幕政を主導する立場となります。
この頃、幕府の意思決定機関である評定衆は形骸化していたようです。
泰時が設置した評定衆
そして、評定衆の下に設置されたのが引付衆で、この頃の引付頭人は、一番から五番までありました。順に大仏流北条宣時・名越流北条公時・名越流北条時基・金沢流北条顕時・安達宗景でした。すべて北条一族と北条氏の外戚安達氏で構成されています。
時頼が設置した引付衆
北条時頼のころから始められ、時宗の代に制度化されたといわれる寄合に参加しているのは、北条業時や安達泰盛、官僚の太田康有や得宗被官(家来)の平頼綱・諏訪盛経らでした。日蓮宗開祖の日蓮は、平頼綱のことを安達泰盛と並ぶ有力者と述べています。
弘安徳政
弘安徳政の特徴
1284年(弘安七年)4月に時宗が没してから、翌年の11月におきた霜月騒動で安達泰盛が滅亡するまでの約1年半の間に、幕府は90以上の法令を出します。これらの法令によって行われた幕府の政治改革を弘安徳政といいます。
これを主導したのは安達泰盛でした。
村井章介(2001)は、自身の著書「中世の国家と在地社会」の中で、弘安徳政の法令群を8つにわけています。
- 幕府の主君にふさわしい将軍の養育
- 将軍直轄領の確保
- 治安の維持強化
- 六波羅探題の強化
- 経済の円滑化
- 引付責任制の導入
- 神領興行法の発布
- 鎮西名主職安堵令の発布
1と2は将軍権力の強化を目指してます。
当時の将軍は源惟康。惟康は、鎌倉から京都に追放された宗尊親王の子です。宗尊親王が鎌倉から追放されると三歳で将軍となりました。この頃は惟康王とよばれていました。
初の親王将軍宗尊親王
時宗が執権のとき、1270年(文永七年)に源姓を与えられ源惟康を名乗ります。惟康は親王将軍として知られますが、親王となったのは1287年(弘安十年)のことで、それまでは源姓を名乗っていたのです。源氏という点では、鎌倉幕府では4代目の源氏将軍ということになります。もちろん、3代将軍実朝とはつながっておりません。
実朝暗殺
時宗が惟康王を源惟康と名乗らせたのは、蒙古襲来という危機に際して、幕府の本来あるべき姿である源氏将軍に戻そうとしたのではないかと考えられています。
将軍権力を強化し、将軍をあるべき姿に戻すという弘安徳政の発想は、時宗が源氏将軍を誕生させた頃からみられるものと言われています。
安達泰盛の弘安徳政は、時宗の政策と連続性を持っていたのでした。
3の治安の維持強化では、悪党禁圧のために、四方発遣人とよばれる使者が全国に派遣されました。賄賂によって公平な判断が損なわれないよう、四方発遣人への進物は禁止されています。
4の六波羅探題の強化は、鎌倉から六波羅に人材を送りこむことを指していました。
5の経済の円滑化は、物流を円滑にする政策で、後の朝廷や幕府の政策にも引き継がれていきます。河手(河川の通行税)・津料(港湾使用税)の徴収も禁止されました。
この政策は、北条得宗家の被官である御内人に大きな影響を与えます。御内人の中には、借上(当時の金融業者)となって御家人から所領を買い入れたり、津料・河手の徴収に関与し、廻船貿易の利潤を取得する者が多かったのです。
当然、御内人は安達泰盛に怨嗟の声をあげたに違いありません。
6の引付責任制は、今までの引付では、一つの裁判について複数の判断が提起されて、評定衆の会議に上程されていた。この引付責任制は、引付が示す判断を一つにしぼるように決められたのです。裁判を正確に、かつ迅速に進めるためでした。
また、越訴(上訴)制度を確立しました。御家人の権利保護を明確にし、裁判制度を重視したのです。
神領興行法と鎮西名主職安堵令
弘安徳政において、7の神領興行法と8の鎮西名主職安堵令が注目すべき政策です。なぜなら、この2つは主に鎮西(九州)を対象になされた政策だからです。鎮西は蒙古襲来を契機に、幕府の管轄に入った地域と言えます。東国政権から始まった鎌倉幕府が、九州まで勢力を伸ばしたことになります。
7の神領興行法は、諸国の国分寺や一宮の所領を取り戻させる政策です。神領は寺社の所領のことで、神領興行は寺社の所領の確保するという意味です。「かつて」寺社であった所領で、現在は別の者が所有している所領を、無条件に寺社に返還させる法令なのです。
本来、幕府の裁判には原則というものがありました。「不易法」と「年季法」と呼ばれるものです。
不易法は一度出されたかつての判決は改めないという考え方で、年季法は20年以上継続して知行した土地の知行権は、そのいきさつに関係なく承認されるという考え方です。不法に占拠していても、20年たてば合法的な知行と認められるのが、御成敗式目以来の幕府の原則でした。
なぜ幕府は基本原則の御成敗式目を破ってまで、寺社に所領を返還しようとしたのでしょうか。
それは蒙古襲来のとき、多くの寺社が「戦」をしていたからです。僧兵を出していたわけではありません。敵国降伏の祈祷をおこなったのです。
それは「戦いなの??」と現代人である私たちは思いますが、当時の人々は祈祷は戦闘行為と同じで、「人々が戦をしているときは、神々も戦をしている」と考えるのがふつうでした。
ですから、祈祷を行った寺社は、当然のように幕府に恩賞を求めたので、幕府は神領興行法を発して土地を与えようとしたと考えられます。この法令は、寺社の敵国降伏祈祷に対する幕府からの恩賞でした。
鎮西の主要な寺社から第三者にわたった所領の取戻しのために、明石行宗・長田教経・兵庫助政行の三人が鎌倉から鎮西に派遣されています。また、鎮西守護の大友頼泰・安達盛宗・少弐経資も合奉行としてこの法令の実行を命じられています。
8の鎮西名主職安堵令は、九州(鎮西)の名主職を承認・保証(安堵)する法令です。
幕府は本来、御家人の関わらない土地関係を裁定することはありません。もともと名主職とは、荘園内の名田の所有者のことです。名主職は本来、荘園領主が管轄するものでした。
荘園
この名主職保持者のうち、本所一円地住人=非御家人を幕府が安堵するという方針を打ち出したのです。非御家人の立場を幕府が安堵するということは、非御家人の御家人化を意味していました。
蒙古襲来に際して幕府は、御家人だけでなく本所一円地住人も動員していました。非御家人にも恩賞を与えるのは幕府として当然のことです。そこで幕府は、彼らを御家人として彼らの立場を安堵することで恩賞としたのです。
安達泰盛は、幕府の基盤を従来の御家人から、非御家人を含めた「全ての武士」にまで拡大することで、「全国政権としての幕府」を確立しようとしたのでしょう。
将軍権力の強化をはかったのも、「全ての武士の頂点」としての将軍を確立させるためだったのではないでしょうか。それは、時宗が考えた源氏将軍を引き継ぐ考えだったといえます。
安達泰盛は、時宗が目指した鎌倉幕府を弘安徳政で体現しようとしていたのかもしれません。
弘安徳政の結末
2つの法令には反発が十分に予想されます。名主職安堵令では、本所一円地住人=非御家人が御家人となれば、非御家人の雇い主である本所(貴族・寺社)が黙っていません。神領興行法では、所領が寺社に戻されれば、所領を取り上げられた側の不満は相当なものになります。安達泰盛の弘安徳政は性急すぎたのでした。
この弘安徳政を主導した安達泰盛は、弘安徳政に反対する北条得宗被官の平頼綱とその一派に滅ぼされることになります。弘安徳政は1年半で挫折することになります。
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