鎌倉幕府歴代将軍の中で、九条頼嗣ほど哀れな将軍はいないのではないでしょうか?
鎌倉に生まれた将軍でありながら、鎌倉幕府の政争に巻き込まれて京都に追放され、京都で短い生涯を終えた将軍頼経。
今回は、頼嗣のはかない生涯を通して鎌倉幕府を見てみましょう。
父頼経の生涯
誕生から将軍宣下まで
延応元年(1239年)11月21日、5代将軍九条頼嗣は、4代将軍九条頼経と中納言藤原親能の娘大宮局(二棟御方)との間に生まれました。
1244年(寛元二年)4月21日、6歳で4代執権北条経時を烏帽子親として元服します。そして同月28日、将軍宣下を受けて5代将軍に就任しました。この将軍就任劇は、北条経時による強引な将軍交替劇だったのです。
頼嗣の元服よりさかのぼること約2年前。1242年(仁治三年)6月、祖父泰時の死にともなって、19歳で執権に就いた経時の周囲は敵だらけでした。名越流北条光時や三浦氏など、反執権・反得宗というべき勢力が、4代将軍である父の頼経の周りに集まり夜な夜な謀反の企てをしていました。
彼らは将軍頼経を担いで、経時排除に出ようと企んでいたのです。
得宗家と名越の因縁の関係を解説
経時は機先を制して、反執権勢力のシンボルとなっていた将軍頼経を引きずり下ろして、頼嗣を5代将軍に据えたのです。経時はお役御免となった頼経に何度も帰京を促します。
突然、将軍の座を引きずり下ろされた頼経の不満は大きく、そのまま鎌倉に居座り続けます。御家人から「大殿(おおいとの)」と呼ばれ、その存在感を発揮し続けました。
1244年(寛元二年)6月13日、頼嗣は父頼経が見守るなか御行始を行い、8月15日の鶴岡八幡宮放生会は頼経とともに出席するなど、頼嗣のそばには常に「大殿」頼経の姿がありました。
檜皮姫との結婚
1245年(寛元三年)7月26日、7歳の頼嗣は執権経時の妹で、9歳年上の檜皮姫(ひわだひめ)と結婚しました。
結婚当日の夜、檜皮姫は北条氏被官(家来)の佐々木氏信・小野沢時仲・尾藤景氏・下河辺宗光らに供奉されて将軍御所に入ります。
この結婚は「密儀」として行われ、つまり「こっそり」行い、後日にお披露目されることになりました。
密儀となった理由ですが、婚姻当日が「天地相去日」という、とにかく「縁起の悪い日」だったことから反対意見が多く出たそうですが、その反対意見を退けての婚姻を強行したからでした。
なぜ経時は将軍との婚姻を密かに、かつ強行したのでしょうか。恐らく、執権経時の足場固めを急いだからと考えられます。
摂家将軍と北条氏のつながりは北条政子の孫娘(父源頼家)で、4代将軍九条頼経の正室として竹御所が没した1234年(文暦元年)7月以降、約10年間途切れていました。
「大殿」頼経を中心とする反執権勢力拡大によって執権の地位を脅かされた経時は、自分の妹を頼嗣に嫁がせることで、将軍家との結びつきを再構築し、事態を有利に運ぼうとしたと考えられます。
その婚姻日を明らかにすれば、名越光時や三浦氏の反執権勢力が妨害工作に出てくる可能性があります。
反執権勢力が油断するであろう不吉とされる日に檜皮姫を将軍御所に輿入れすることで、経時は妨害工作を封じたのかもしれません。
宮騒動
頼経はわずか2年間でしたが、将軍を退いた後も鎌倉に留まった唯一の人物です。また「大殿」と呼ばれて、その影響力を維持したままでした。
1246年(寛元四年)3月23日、病床の経時は弟時頼に執権職を譲り、閏4月1日に死去しました。
経時の死後まもなく、「宮騒動(寛元の政変)」と呼ばれる事件が勃発します。これは、名越光時らの反執権勢力が「大殿」頼経を担ぎ、執権に就任したばかりの時頼を追放しようと企てますが、時頼が機先を制したことで、逆に反執権勢力が幕府から追放されるという事件です。
宮騒動(寛元の政変)を時系列的に解説
同年7月11日、宮騒動によって頼経は鎌倉から追放され、京都六波羅探題に預けられます。
わずか8歳の頼嗣にとって父頼経追放劇はどのように映ったのでしょう。
将軍としての教育
幼い頼嗣が政治を行うことはできませんから、幕府は新たに就任した執権時頼によって運営されていきます。
頼経の京都追放後、時頼によって頼嗣の近習が定められました。幼い頼経を将軍として立派に育成しようという時頼の意気込みを感じさせる内容です。
この近習番リストは時頼自ら執筆して、理由なく勝手に三回欠席した御家人は罰せられることが定められたようです。
また時頼は頼嗣のいわゆる「先生」を選んでいます。
和漢の学問は文士(官僚)の中原師連・清原教隆を選び、弓馬の指導は安達義景・小山長村・佐原光盛・武田五郎・三浦盛時といった有力御家人を選んでいます。
さらに御家人の優秀な子息を頼嗣の「ご学友」に選んでいます。
このように時頼は、頼嗣に対して将軍として学問と武芸の両方を身につけるようにはからっていて、将軍を適当に扱うことはなかったようです。この頃は…ですが…
宝治合戦
頼経が京都に送還された翌年の1247年(宝治元年)5月13日、病に伏せていた頼嗣の妻檜皮姫が18歳で没しました。
将軍家と執権北条氏の姻戚関係は再び途切れてしまいます。
この前後から再び不穏な動きが起こります。
前将軍頼経の復帰を願う三浦氏等の活動が活発化し、6月5日に武力衝突に発展します。この戦いを宝治合戦と呼びます。
結果、三浦氏とその姻族(毛利氏など)は滅び、宮騒動で上総に追放されていた千葉秀胤も7日に滅亡しました。
宮騒動で反執権的な行動を取った一族は、時頼によって完全に息の根を止められたのです。
宝治合戦を時系列的に解説
宝治合戦は、鎌倉市中で行われた大きな戦ですが、合戦中、時頼は常に頼嗣のそばにあって、幕府の実力者金沢流北条実時に将軍御所の防衛にあたらせていました。頼嗣はしっかり守られていました。三浦勢に奪われることがあれば、時頼は一気に形成不利となりますので当然と言えば当然ですが・・・。
合戦後、頼嗣は鶴岡八幡宮への所領寄進状や、戦功のあった御家人への地頭職補任の文書に花押(サイン)をしています。
皮肉にも頼嗣は、父頼経を「再び鎌倉に招こうとした」三浦氏を滅ぼした御家人の戦功を賞さなければならないことになったのです。
7月1日、頼嗣の近習番が刷新されます。近習番に三浦氏とその与党が多く任じられていたからでした。同月27日には、京都より帰還した北条重時が連署に就任し、時頼政権が強化されていきます。
さらに8月1日、執権・連署以外の者が将軍へ貢ぎ物を献上すること禁止します。
これは将軍の近臣が、将軍の力を背景に第二の三浦氏とならないようにするための策でした。
鎌倉追放
頼嗣は、1246年(寛元四年)11月に従四位下、1249年(建長元年)1月に正四位下、同年6月左近衛中将に補任されます。1250年(建長二年)1月美濃権守を兼ねます。
そして、1251年(建長三年)6月には閑院内裏造営の賞により従三位に叙せられました。
公卿に昇った頼嗣は7月8日、下文の形式を自身が花押を据える「袖判下文」から、家司等の連署で発給される「将軍家政所下文」へ変更しています。
このように、宝治合戦後も順調に昇進していた頼嗣ですが、彼の運命を大きく変える事件が起こります。
九条頼嗣追放と親王将軍擁立を時系列的に解説した記事
1251年(建長三年)12月26日、鎌倉において了行法師・矢作左衛門尉・長久連等が捕まりました。
彼らは宝治合戦で滅びた三浦・千葉氏の残党で、尋問の結果、謀反の企てが明らかになります。
1252年(建長四年)2月20日、時頼は二階堂行方・武藤景頼が京都に派遣。頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の息子を新将軍に迎える手はずを整えます。
後嵯峨上皇は鎌倉幕府によって即位した天皇でしたので、後鳥羽上皇のように反対することはあり得ません。
後嵯峨天皇即位について
この将軍交代は、執権北条時頼・連署北条重時の2人のみで決定され、2人以外は誰も知らなかったと伝えられます。
皇子の鎌倉下向要請の書状は時頼自身が作成し、これに重時の花押を加えたものでした。
わずか14歳の頼嗣は将軍辞職は、将軍就任・檜皮姫との婚姻と同様、頼嗣の預かり知らぬところで密かに進められたのでした。
1252年(建長四年)4月1日、鎌倉に新将軍宗尊親王が到着します。かつて、北条政子・義時が望んだ親王将軍の誕生です。
頼嗣の将軍在職期間はわずかに8年。1年で将軍の座を追われた2代将軍源頼家に次いで、2番目に短い在職となりました。
同3日、頼嗣出発の日について、陰陽師が日が悪いと報告するも、時頼はこれを無視し頼嗣を鎌倉から追放します。用がなくなればポイっという北条氏の将軍に対する姿勢は、源頼家の時から引き継がれているかのようです。
その後
頼嗣の京都送致には母の大宮局が同行しました。
大宮局は夫頼経の鎌倉追放には同行せずに鎌倉に残っていました。幼年の頼嗣を鎌倉に置いて夫頼経と上洛はできなかったのでしょう。
この家族が京都で再び巡り会ったのか、どう暮らしたのかといった史料はありません。
1256年(康元元年)8月11日、父頼経が39歳で死去します。9月24日、頼嗣は父を負うように死去しました。死因は赤斑瘡(麻しん)と伝えられます。享年18歳。父同様にその墓所は不明です。
参考文献
細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。
コメント