2代将軍というのは、どの幕府においても基本的にマイナーな存在です…室町幕府2代将軍足利義詮、江戸幕府2代将軍徳川秀忠…そして、初代と3代は超有名な将軍です。
当サイトは、鎌倉幕府を知ることによって室町幕府を理解することを目的としているため、鎌倉幕府が舞台になりますが、その鎌倉幕府の2代将軍もまたマイナーな存在です。
源頼家。鎌倉幕府2代将軍でありながらその生涯は意外と知られていません。しかし、元祖2代将軍なのです。
今回は、そんな頼家について見ていきましょう。
誕生から頼朝の死まで
源頼家は、1182年(寿永元年)8月12日、父源頼朝と母北条政子の間に生まれました。乳母父には源家一門の平賀義信が就任します。姉には大姫、弟には実朝がいます。
7歳で御着甲始め、9歳で秀郷流故実に通じた下河辺行平が弓馬の師につけられます。
1193年(建久四年)5月16日、12歳になった頼家は、富士巻狩りにおいて鹿を射止める弓馬の芸を披露します。
この富士巻狩りでの鹿狩りは、頼家が頼朝の正当な後継者であることを内外に示す重大なセレモニーで、源頼朝が頼家に武家の棟梁にふさわしい英才教育を施した成果を見せる場でもあったのです。
しかし、5月28日に曽我兄弟仇討事件が発生し狩りは中止となり、改めて山神矢開きが行われることとなりました。
頼朝は、頼家の側近を乳母の縁者である比企氏で固めていきます。しかし、これが後に頼家と北条氏の軋轢に発展していくことになるのです。
1195年(建久六年)6月3日、東大寺供養のために上洛した頼朝に供奉して参内。
1197年(建久八年)12月15日に従五位上右近衛少将に補任。
1199年(正治元年)1月13日に頼朝が没すると、1月20日に左近衛中将に補任され、同26日に遺跡継承の宣旨を給わります。
宿老との確執
頼朝のあとをついで新鎌倉殿として頼家は政務に取り組むも、4月12日には早くも、将軍の訴訟における直断が停止され、幕府宿老13人が合議の上裁断していくことが定められます。
父頼朝の独裁体制を継承しながら、同時に世代交代を進めていこうとした頼家は、幕府宿老たちと衝突したのでした。
梶原景時の変
10月27日、梶原景時が結城朝光を謀叛の咎で討とうとしていると御所女房阿波局が朝光に密告したことから、梶原景時が御家人たちによって幕府から追放される事件が起こりました。梶原景時が幕府から追放され、討伐されるまでを梶原景時の変といいます。
1200年(正治二年)1月5日に頼家は従四位上に昇進し、8日に禁色を許されますが、12日に梶原景時が駿河国おいて討たれます。
梶原景時は頼家の傅役(幼主の世話人)だったこともあり、頼家の最も有力な支持者でした。関白九条兼実や天台座主慈円は、実朝擁立の陰謀をつかんだ梶原景時をかばいきれなかったことが、頼家の最大の失敗と評しています。そして、証拠はありませんが、この実朝擁立を企んだ者こそ北条時政ではないかと推測されているのです。
牙をむく時政
頼家は支持勢力の梶原氏を失ったとはいえ、事件後も順調に官位は上がっていきます。
1200年(正治二年)10月26日に従三位に叙され、左衛門督に補任されます。
1201年(建仁元年)1月23日、鎌倉幕府が世代交代によって安定しなくなったと判断した城氏は、京都と根拠地越後で挙兵しましたが、5月に鎮圧されました。
「吾妻鏡」は、この頃から政務を投げうって蹴鞠に没頭するようになったと記しています。
1202年(建仁二年)1月23日に正三位に叙され、7月23日には従二位に叙されます。
1203年(建仁三年)5月19日、比企氏の乱の前哨戦ともいえる阿野全成事件が起こります。頼朝の義弟かつ義経の実兄で、源実朝の乳母父である阿野全成が謀反の嫌疑によって捕らえられ、常陸の配所で誅殺されました。この後、北条時政が実朝の乳母父になります。
実朝の乳母は、梶原景時の変で結城朝光に景時の讒言を密告した御所女房阿波局で北条時政の娘でした。その関係から、時政が乳母父を引き継ぐことになったのです。北条時政は、実朝の外祖父で、乳母父という地位を掌握します。
比企氏の乱
1203年(建仁三年)7月20日、頼家は大江広元邸で倒れ、生死をさまよう重体に陥りました。そのため、将軍の後継問題が急浮上します。
頼家が生死をさまよっていた9月2日。北条時政が比企能員を謀殺します。能員殺害を知らされた比企一族は、小御所に一幡とともに立てこもり追討軍に討伐され全滅します。これを比企氏の乱といいます。
頼家出家
頼家の病状が回復し始めたのは9月5日でしたが、頼家を支える勢力である梶原氏・比企氏はすでに族滅し、頼家は孤立無援となっていました。
9月7日には母北条政子の説得によって出家に追い込まれます。このとき23歳。
頼朝の失策
頼家の支持勢力は、源頼朝が側近として付けた源家一門の平賀義信や加賀美遠光、比企尼の縁者河越重頼や比企能員、傅役梶原景時でした。
いずれも頼朝の側近として周囲にいた人々でしたが、頼家の生母政子の一族北条氏は入っていません。
頼朝は北条時政が外祖父として将軍を利用することを恐れたのかもしれません。時政なら利用しかねませんし、実際利用していきます。頼朝は、北条時政を親族として信頼できなかったのでしょう。
しかし、北条時政を頼家の周囲から外して北条氏の待遇を下げたことが、結局は頼家と北条氏の対立の構図をつくる原因になったのです。頼朝の大失策と言えます。
頼朝が北条氏を遠ざけた結果、頼家も北条氏を遠ざける、正確には軽んじるようになります。とはいえ、北条一族全てを遠ざけたのではなく時政・義時父子を遠ざけ、義時の弟時房(のちに泰時の補佐として連署に就任)を近臣として重用しています。
頼朝よりバランス感覚があった頼家
頼家は狩猟や蹴鞠などを通じて独自に近習を組織しています。比企宗員・比企時員・小笠原長経・北条時房・和田朝盛・中野能成・平知康・紀行景・源性・義印といった人々です。
源家一門・比企・北条といった頼家の親族集団に特技をもった人々を加えた構成です。頼朝が頼家の周囲に一部の人々しか配置しなかったことと比べると、頼家のバランス感覚が見えてきます。
頼家の最期
1204年(元久元年)7月18日、伊豆国修善寺で北条氏の手兵によって謀殺されました。「愚管抄」によればその最後は「きびしく攻めつけ、顎に紐をつけ、陰嚢を押さえるなどして殺害した」という悲惨な死であったと伝わります。享年23歳。
源頼家の評価は、京都と鎌倉では異なっています。
北条得宗専制政治が確立したころに記された『吾妻鏡』では、頼家は先例を無視し、遊興にふけり家来の愛妾を寝取る暗君として描かれています。
京都側の史料『愚管抄』では頼家に好意的で、むしろ北条一族を厳しく評価しています。
どちらも頼家の姿なのでしょう。政治能力を発揮できずに若くして命を奪われた頼家がどんな人物だったのか、その想像は膨らむばかりです。
コメント