義経の都落ちまで
平家を滅亡させたことは、源頼朝・義経兄弟が共通して取り組むべき目標を失ったことを意味していました。平家打倒という点は一致していましたが、二人にはその考え方に大きな違いがあったのです。
頼朝は、朝廷が鎌倉幕府に委譲する権限を最大限引き出そうと戦略的に判断を下しながら平家と戦っていましたが、義経は平家打倒のためには手段を選ばない過激さをもって戦いに臨んでいました。
両者の考え方の違いは、義経と頼朝が派遣した軍奉行梶原景時の対立として表面化していました。梶原景時は、頼朝の意志を忠実に実行する軍奉行でしたから、義経が景時と対立する時点で、頼朝と対立することが確定的だったと言えます。
そして、義経が後白河法皇の近臣と接近し独自の行動をとり始めたことによって両者の対立は決定的なものとなります。
1185年(文治元年)10月8日、源義経は頼朝追討の宣旨を後白河法皇から給わって挙兵におよびます。しかし、軍勢が集まらないために西国に逃れようとしましたが失敗します。そして、吉野に逃れたあと姿をくらましました。
鎌倉幕府の成立
義経が逃亡したことを受けて、源頼朝は北条時政を京都に派遣し、本来であれば平家滅亡によって解除されるはずだった戦時体制を源義経追補の名目で継続させることに成功しました。鎌倉幕府の職制の基本である「守護・地頭」が全国に設置されることになったのです。1185年(文治元年)11月28日のことでした。
もっとも、当時は守護とは呼ばれず、惣追捕使と呼ばれていましたし、全国といっても本当に全国に設置されたわけではありません。頼朝の力がおよぶ東国が中心でした。しかし、現在ではこれをもって鎌倉幕府の成立と言われています。
奥州藤原氏滅亡まで
1185年(文治元年)12月29日、頼朝は義経と親しくした院近臣を解任し、摂関政治を理想とする九条兼実と強調することによって、後白河法皇の院政をけん制しようとします。
1186年(文治二年)になると、内乱の時代に未納となっていた年貢の完済、新たに任命された地頭による荘園経営の混乱など、膨大な訴訟が後白河法皇から起こされました。後白河法皇も頼朝をけん制しようとしたのです。頼朝と後白河法皇の緊張が高まっていきました。
また、各地で続いていた平家・木曽義仲・源義経残党の追補は着実に進められましたが、1187年(文治三年)には義経とその側近が奥州に逃れていたことがわかり、頼朝の仮想敵国は奥州藤原氏に向けられます。頼朝は、藤原秀衡の鎮守府将軍に対する称号として征夷大将軍の称号を望みましたが、後白河法皇は任命をのらりくらりとはぐらかします。
同年10月29日、藤原秀衡が没し嫡子泰衡が家督を継承すると、奥州藤原氏は頼朝と妥協の道を探るか、源義経を切り札として対抗するかで路線が定まらなくなり内部対立が深刻になります。
1189年(文治五年)1月5日に頼朝は正二位に叙され、2月22日には藤原泰衡が源義経をかくまっていることを理由に、後白河法皇による追討宣旨を奏請しますが、後白河法皇はこれものらりくらりと引き延ばします。閏4月30日、藤原泰衡は源義経と強硬派で泰衡の弟である忠衡を討伐します。これによって、藤原泰衡は頼朝の奥州藤原氏追討の理由を消滅させました。しかし、その後も頼朝は泰衡追討の宣旨の発給を奏請しています。
結局、7月16日に頼朝は宣旨がないままで奥州進攻を決定し、7月19日には軍勢を出発させます。その数24万人。奥州藤原氏は2万人の軍勢を配備して鎌倉勢を迎え撃つも多勢に無勢。8月8日に阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏の軍勢は壊滅し、8月22日には奥州藤原氏の本拠地平泉は鎌倉勢によって攻略されます。9月3日、藤原泰衡は郎従河田次郎に殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡したのでした。
頼朝は、前九年の役で源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を厨河柵で晒します。前九年の役の源頼義の先例を持ち出すことによって、頼朝と東国武士との主従関係をさらに強固にする狙いがあったと考えられます。泰衡追討の宣旨が頼朝のもとに届いたのは、すべてが終わった9月9日のことでした。
1190年(建久元年)1月、出羽国において奥州藤原氏の家人大河兼任が主人藤原泰衡の仇を討つと宣言して挙兵します。鎌倉方は奥州に所領をもつ御家人を急派し、さらに鎌倉から足利義兼を追討使とする大軍を派遣して2月12日に鎮圧しました。
同年10月3日、ついに源頼朝は上洛します。この時に後白河法皇と対面して「天下落居」が宣言されました。治承四年以来続いた内乱が終結したのです。11月9日に権大納言に補任、同24日に右近衛大将に補任されますが、12月4日に両職を辞任します。そして、12月14日に鎌倉に向けて京都を出発しました。
征夷大将軍就任
1191年(建久二年)1月15日、前右大将家政所始が行われ、鎌倉幕府の閣僚任命が行われました。
1192年(建久三年)3月13日に後白河法皇が崩御すると、関白九条兼実は頼朝の宿願であった征夷大将軍補任を申請、7月12日に補任されます。このとき46歳。
8月5日、将軍家政所始が行われ、政所下文が発給されました。千葉常胤が、政所の下文には事務官僚の署名と花押(サイン)だけで頼朝の花押がないとして、頼朝の花押をせがんだエピソードが残るのはこの時のことです。
晩年まで
1193年(建久四年)5月、源頼家を嫡子として披露するために富士巻狩りを催しましたが、曽我兄弟仇討事件によって目的を果たせませんでした。この事件の根底には、頼朝が嫡子頼家の周囲を比企氏縁者で固めたことに対する反対する勢力が関与していると考えられているようです。諸説ありますので真偽は明らかではありません。
この事件は源家一門の粛清へと意外な方向に波紋が広がっていきます。独裁者頼朝の猜疑心は身内へと向かったのです。
1193年(建久四年)8月、源家のなかでは穏健な存在として知られていた源範頼が謀反の疑いで伊豆国へ配流となり誅殺されます。さらに、1193年(建久四年)11月28日、甲斐源氏の安田義資が院の女房に艶書(ラブレター)を送ったとして梶原景時の讒言によって誅殺されます。安田義資の父義定は、義資に連座する形で所領没収の上、遠江守護職を解任されました。さらに1194年(建久五年)8月19日には、子の義資が殺されたことに恨みを抱いているとして、謀叛の疑いで義定が誅殺されてしまいます。
これによって源家一門内部の不穏分子は一掃されましたが、将軍家に忠実な家として残ったのは足利・平賀(大内)・加賀美(小笠原)のみとなりました。
1195年(建久六年)2月14日、源頼朝は、東大寺供養のために上洛をします。そして、源通親と長女大姫の入内について話し合っています。源通親は院政復活を願う立場にあり、摂関政治を理想とする親幕派の関白九条兼実とは対立する立場にありました。
翌1196年(建久七年)11月、源通親は頼朝が大姫入内に気を取られるあまり、朝廷に対して積極的に介入できない状況にあることを見透かしたうえで、関白九条兼実をはじめとする親幕府勢力を朝廷から追い落とします(建久七年十一月の政変)。
このことを見過ごしたのは頼朝晩年の大きな失策といえます。
1198年(建久九年)1月には後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位し、院政を始めました。この後、京都の政局は後鳥羽上皇を補佐する源通親や高倉家が動かすことになります。承久の乱の種は、この時にまかれたのです。
一方で、もし頼朝が大姫を天皇の妃として入内させ、生まれてきた皇子の外祖父として振舞おうと考えていたのであれば、それは摂関家や平家と同じことを行おうとしたことになります。そうなると、鎌倉幕府の独自性は朝廷という大権力によって吸収されていったかもしれません。幕府にとって幸か不幸か、大姫は入内することなくこの世を去ります。
1199年(正治元年)1月11日、出家。同13日死去。落馬が原因と言われていますが、真相はわかりません。朝廷にすり寄る頼朝に、東国武士が反感をもっても不思議ではありませんから。享年53歳。
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