九州に落ちた足利尊氏は、多々良浜の戦いで勝利をおさめたことにより、再び京都を目指すことになります。
九州の多々良浜(福岡県福岡市)で尊氏が勝利する直前の2月29日、京都では後醍醐天皇により改元が行われて延元元年となりました。
建武から延元へ
建武改元のときも、後醍醐天皇と側近公卿との間でひと悶着ありましたが、今回もひと悶着があったようです。
元弘から建武への改元の時、側近公卿たちは「建武という年号は不吉なので、改元を思いとどまってください」と、後醍醐天皇を諭しましたが、後醍醐天皇はそれを強行。
今度は「建武は不吉だ」という後醍醐天皇が言い始めて、側近公卿が「はあ??」というように、後醍醐天皇と側近公卿の間に溝が生まれてきました。
後に、北畠顕家が朝令暮改を改めるように後醍醐天皇を諌めていますが、改元においても後醍醐天皇に一貫性がなかったことによって、近臣の不満を増幅させたのでした。
正成と義貞の違い
『梅松論』によれば、この時期に楠木正成から後醍醐天皇に対して、「義貞を誅伐して、尊氏を召し返して、君臣和睦するように」という献策が行われたようです。
人心はすでに尊氏に傾いているとして、和睦を主張したのでした。しかし、この講和要請は後醍醐天皇・側近公家から無視されるどころか、和睦を進言したことで不信を買い、謹慎を命じられました。
そのため、義貞を総大将とする尊氏追討軍から外されています。
3月2日、多々良浜で尊氏と九州最大の後醍醐派である菊池武敏との戦いが行われ、尊氏の勝利に終わります。
3月10日には義良親王・北畠顕家の奥州軍が帰国の途につきました。義良・顕家とともに上洛した顕家の父親房は病になったので、京都に残ることになります。
同じころ、義貞を大将とする尊氏追討軍は播磨赤松攻めに出撃します。この軍に、現状を冷静に分析する能力に長けた正成がいないことが致命的となります。
義貞は、1ヶ月以上にわたり赤松攻撃に時間を費やし、大宰府の尊氏に勢力拡大の時間を与えてしまうことになります。
義貞のつまらぬプライドが原因でした。
義貞軍が近づくと、赤松円心は播磨守護職をもらえるなら降参すると申し入れます。
播磨国の国司でもあり守護であった義貞が、円心の守護職任命の勅許を求めて京都と連絡しているうちに、円心は白旗城(兵庫県上郡町)の防備を固めてしまったのです。
そして、円心は「守護も国司も将軍(尊氏のこと)から頂戴している。手のひらを返すような綸旨などいるものか」と義貞を嘲笑しました。
義貞は「この恥辱を必ず晴らす。たとえ数ヶ月かかってもこの城を必ず落としてみせる」と50日以上を包囲し続けたと『太平記』には記されています。
義貞は北関東平野部で育った武士だったことから「平場の懸」、すなわち平原戦を得意とする反面、山岳戦や市街戦は苦手だったようで、箱根・竹之下の敗北も、この白旗城攻撃の失敗も、義貞の能力不足だったといえます。
自身が苦手とする戦いを知らずに面目だけで戦闘を行う義貞は、状況に応じて変幻自在に戦法を操る正成とは対照的です。
義貞が周囲のすすめによって白旗城攻略をあきらめ、備前・備中に軍をすすめた頃、尊氏は博多を出発していました。
義貞が白旗城に1ヶ月以上も費やしたせいで、山陽諸国と瀬戸内海を制圧する機会を永久に失ったのでした。赤松円心の戦功は大きかったのです。
湊川の戦い
西上する足利軍
4月3日、尊氏は7千艘の水軍を率いて博多を出発します。これらの船の徴発も1ヶ月の間に行われたとみられます。
尊氏は5月5日に備後鞆(広島県福山市)に到着しました。博多出発から1ヶ月もかかったのは、途中で厳島神社に参詣したり、尾道浄土寺に詠歌を納めたりしたためで、これも神々が足利軍に宿るパフォーマンスでした。
また、港に停泊しながらゆっくりと東に進む間に、中国・四国の武士らの糾合をはかりました。
尊氏軍は備後鞆で後醍醐方との合戦の戦略を立てます。
①尊氏・直義が船に乗り他の武将は陸地を行く案、②両人とも陸地を行く案、③全員で船で行くという3つの案が提示されました。
少弐頼尚の意見もあり、尊氏は船で、直義は陸地を行くことに決定します。箱根・竹之下、多々良浜のいずれの戦いにも見られた兄弟の連携作戦です。
しかも今回は、水陸両面からというスケールの大きな作戦。尊氏軍の兵力は、九州・中国・四国勢を集めた大兵力でその数10万。一方の義貞は、日々兵力を減らしていき、その数2万。
義貞は、兵庫に退却します。
正成の献策
後醍醐天皇は謹慎させていた正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じます。
楠木正成は、勢いに勝る尊氏軍と正面切って戦えば敗北することを予想していました。
そこで、新田軍を兵庫から京都へ呼び戻し、後醍醐天皇は比叡山に移り、いったん尊氏を入京させ、楠木・新田両軍が包囲攻撃するという、「守りにくく、攻めやすい」京都の地形を利用した現実的な作戦を提案します。
後醍醐天皇・側近公家もこれに納得し、この策が採用されようとしたところ、坊門忠清という側近公家が「精神論」を持ち出します。
「帝が何度も京都から離れるのは体裁が悪い。我々は今まで少数で大軍を打ち負かしてきた。それは武略に優れていたからではなく、聖運の天に通じていたから」というものでした。
しかも、後醍醐天皇は坊門忠清の策を採用します。
しかたなく、正成は京都から出撃することになりました。正成はこの時に死を覚悟したといわれます。
湊川の戦い
播磨では直義軍が白旗城の包囲を解きました。
義貞軍は正成軍と合流し、兵庫島とそれを守る形で突き出した和田岬(兵庫県神戸市)に陣を敷き、正成は湊川(兵庫県神戸市)から兵庫島を見下ろす会下山(えげやま)を本陣としました。
5月25日早朝、細川軍が四国の水軍を率いて敵の背後を断つために東に船を走らせます。尊氏の御座船には日輪と「天照大神、八幡大菩薩」の文字を金で付けた錦の御旗が翻っていました。
午前10時ごろ、陸地において山の手・浜の手・須磨口の三方で戦闘が起こりました。海上と陸地の両方から鬨の声を呼び交わしての戦いでした。
直義軍は防衛線を突破して、和田岬の義貞軍を打ち破ります。海上をすすむ四国勢も生田の森に上陸し、義貞軍を撃破。義貞は京都へ撤退します。
義貞の撤退によって、孤立した正成は会下山から湊川へ決死の突撃を敢行します。
午後4時過ぎ、戦いは終わりました。
楠木正成と弟正季以下、50人余りが自害し、3百人余りが討死しました。足利軍も多くの武士が討たれ、負傷したと伝わります。
この後、入京した尊氏は後醍醐軍と約半年におよぶ戦いを制した後、室町幕府を開きます。
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