1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。
実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経を名乗りました。
翌1226年(嘉禄2年)、朝廷から征夷大将軍に任ぜられました。摂家将軍と言われた4代将軍の誕生です。
四代将軍頼経と反執権勢力
頼経は征夷大将軍でしたが名ばかりでした。実権は北条政子・義時に握られ、政子・義時が没した後は3代執権の泰時に握られていたのが実情です。
このように頼経は「飾り物」の将軍でしたが、それでも御家人の長たる鎌倉殿で将軍ですし、幼少の時から長い期間を鎌倉で過ごしていましたので、周囲には多くの御家人が集まっていました。
頼経の周りに集まってきたのは、義時・泰時ら得宗(とくそう)北条氏のことを面白く思っていない御家人たちでした。
評定衆の後藤基綱・千葉秀胤と有力御家人三浦義村の四男光村らがいました。そして、得宗北条氏に反抗的な名越流北条朝時の嫡男光時も加わっています。
彼らは将軍頼経の下で反執権勢力という存在になっていきました。
経時の計略
1244年(寛元二年)4月21日、経時は強引に将軍交代を画策します。頼経が将軍になって18年の月日が経っていました。
経時は将軍頼経の息子を元服させ、頼嗣(よりつぐ)と名乗らせます。まだ6歳。その日に経時は評定衆をひきいて政所に集まり、頼嗣の吉書始めの儀式をおこないました。これは頼嗣が鎌倉殿になったことを世間に知らしめるセレモニーです。
さらに儀式終了後、すでに夕方になっていましたが、経時は家来の平盛時を京都に派遣し、頼嗣の征夷大将軍の宣下を奏請します。
4月28日、朝廷は頼嗣を征夷大将軍に任命します。執権経時が頼経に将軍職辞任を要求したのも同然でした。
このように、頼嗣元服から将軍宣下までスムーズに事が運んでいることから、用意周到に朝廷に対して準備を行っていたと考えられます。
幕府内でも準備を用意周到に行っています。騒動が起こった1244年(寛元二年)、将軍頼経の側近で反執権勢力の三浦光村・千葉秀胤を評定衆に加わっていますが、これは反執権勢力の分断あるいは、懐柔をはかったものと考えることができます。反執権勢力が巻き返しにきたととることもできそうですが、どっちなんでしょう??私は分断・懐柔のような気がします。
当然、強引に将軍の座から引きずり降ろされた将軍頼経の経時への反発は大きく、頼経の上洛(帰京)が幾度となく決定されても鎌倉に居つづけます。
1245年(寛元三年)7月、頼経は出家しますが、「大殿(おおいとの)」と呼ばれ、将軍を辞した後もその存在感を示していました。
宮騒動(寛元の政変)勃発
1246年(寛元四年)3月、将軍頼経追放を画策した執権北条経時が発病しました。経時は執権職を弟の時頼に譲ると、閏4月1日死去。享年23歳。
経時の死によって事態は急速に展開します。
4月18日、鎌倉中が騒がしくなります。甲冑を身につけた武士が鎌倉にどんどん押し寄せて集結するという事態が発生します。
4月20日、さらに近国の御家人が鎌倉に集まり、連日騒々しい日々が続きます。この騒ぎは5月になっても納まらず、鎌倉中の庶民が家財をもって逃げ出すありさまだったようです。
5月24日、執権時頼は渋谷一族に中下馬橋の警護を命じます。将軍御所に集まろうとする人々を阻止させ、時頼邸に集まる人々は素通りさせます。
甲冑をつけ、旗をあげた御家人が幕府や時頼のもとに集まりました。そして、各所で衝突が見られたといいます。
同日、名越光時の謀反が発覚したという噂が流れ、御家人たちが騒ぎ、将軍頼経・光時ら反執権勢力は混乱しました。
5月25日、光時は出家、その髻(もとどり:髷のようなもの)を時頼に差し出し、謝罪を申し出ることによってこの騒動は収束したのでした。
騒動の処分
5月26日、時頼邸に北条政村・金沢流北条実時・安達義景が集まり「深秘御沙汰(しんぴのごさた)」、つまり密談が開かれます。この密談は今回の事件の処理について話し合われたとみられています。
6月7日、光時側についていた後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持は評定衆から除名され、康持は問注所執事も罷免されました。また、藤原定員および子息定範も処罰、さらに名越流北条光時の弟時幸が自害に追いやられています。
光時は伊豆国田方郡江間に配流されるとともに、名越氏が保有していた越後国行政権をはじめ、多くの所領が没収されます。さらに千葉秀胤を上総国に追放しました。
6月10日、時頼邸において、北条政村・実時・安達義景、さらに御内人の諏訪盛重・尾藤景氏・平盛綱らを集め、再び深秘御沙汰たる密談を行っています。三浦氏の処遇について討議されたとみられています。
さて、側近のほとんどをなくした「大殿」前将軍頼経は、これ以上鎌倉に滞在することは許されない状況になりました。
7月11日、北条時定・島津忠時、将軍側近だった三浦光村、同じく将軍側近で評定衆を罷免された後藤基綱に警護されて京都へ送り返されます。
前将軍頼経を中心として、その側近である有力御家人や北条氏の一部が結びついた反執権クーデターは大規模な合戦になる寸前に制圧されました。
この一連の事件を『鎌倉年代記』は「宮騒動」と書き残しています。宮騒動の由来はこの鎌倉年代記から来ていたのでした。
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