1335年(建武二年)6月、建武政権に大きな衝撃を与える陰謀が明るみになります。
それは、持明院統の後伏見法皇を奉じて、後醍醐天皇を倒すというものでした。
その陰謀は、全国各地で勃発する北条氏残党の反乱と深く結びついたので、さらに親政政権を揺るがします。
西園寺家と北条氏
計画の主謀者は権大納言西園寺公宗。廷臣橋本俊季・日野氏光(西園寺公宗の義兄)、さらに北条氏残党とも手を組んだ大規模な計画でした。
西園寺家と北条氏の関係は古く、100余年前の「承久の乱」までさかのぼります。
承久の乱では、西園寺公経が後鳥羽上皇の討幕計画を鎌倉にいち早く知らせたことによって、北条氏の信頼を得ることになりました。
以降、朝幕間の交渉役である「関東申次」を代々つとめ、北条氏の力を背景に摂関家の実権を奪うほどの権勢を振るいます。また、持明院統と大覚寺統の皇位継承に関する争いをたくみにあやつってきました。
しかし、1333年(元弘三年)5月、後ろ盾ともいえる北条氏が滅亡。
後醍醐天皇によって、全ての役職を停止された西園寺家は退勢の危機に直面します。
当主の西園寺公宗は、その退勢を打破すべく、得宗北条高時の同母弟である北条泰家をかくまって、虎視眈々とその時を狙っていたのでした。
泰家は得宗北条高時の同母弟で、「嘉暦騒動」と呼ばれる執権の座をめぐる騒動を引き起こした人物です。
【嘉暦騒動・元徳騒動】傀儡化した得宗北条高時と鎌倉幕府の限界
鎌倉幕府滅亡の前、分倍河原(東京都府中市)の戦いでは、泰家は幕府軍総大将として、新田義貞の軍勢と衝突します。
激戦の末に幕府軍は敗北。泰家は奥州に逃れてから京都の西園寺公宗邸に潜伏します。泰家は「時興」と改名しました。
時興が京都で挙兵し、それに呼応して信濃国で北条時行(北条高時の遺児、時興の甥)が挙兵する手はずでしたが、計画が発覚したことで失敗におわります。
この陰謀発覚後の6月17日夜、後醍醐天皇は後伏見法皇を持明院殿から京極殿に移します。
6月22日に西園寺公宗・日野氏光・日野資名(氏光の父)・三善文衡らを捕らえられます。
6月26日には公宗は出雲国へ流罪と決まりました。
そして8月2日、出雲国へ配流される途中に名和長年によって処刑されます。現職公卿の処刑は、平治の乱の藤原信頼以来の出来事で京都中が震撼したそうです。
ところが、この事件によって西園寺家は逆に力を盛り返します。
なぜなら、この陰謀を知らせたのは公宗の弟公重だったからです。
公重は恩賞として西園寺家の家督相続を許され、さらに建武政権の国司改革で奪われていた伊予国の知行を再度認められることになりました。
一方、京都に潜伏していた時興はどこかに逃亡。翌7月に高時の遺児相模次郎時行は単独で信濃に反乱を起こします。
中先代の乱
北条時行の鎌倉攻め
信濃は北条義時以来、北条氏が守護として支配した国で、塩田流北条氏の由来でもある塩田荘など、北条氏の旧領が多い国でした。
さらに、諏訪大社の大祝である諏訪氏の一族は代々北条氏・得宗の被官だったことから、その関係は非常に強固なものだったのです。
時行を棟梁と仰ぐ諏訪・滋野氏らの軍は東進して、7月14日に守護小笠原貞宗の軍を青沼(埴科郡内)で撃破しました。
そして、近隣の勢力を合わせて武蔵に入り、女影原・小手指原・府中などで足利軍を撃破して、鎌倉に迫ります。
7月22日、鎌倉将軍府で執権と呼ばれていた足利直義は自ら出陣して武蔵の井出沢(町田市)で敵を迎え討ちますが敗北。
一門今川範国のすすめで、夜に紛れて単身そのまま東海道を西走しました。鎌倉は混乱に陥り、成良親王は叔父の阿野実廉に守られて、直義のあとを追うことになります。
このような状況下にあっても、直義は幽閉中の護良親王の処分だけは忘れませんでした。護良親王が北条反乱軍の手に渡れば、どのような事態になるかわかっていたのでしょう。出陣に先立って討手を差し向け護良親王を斬っています。
7月25日、時行は足利軍を蹴散らして鎌倉に入りました。父高時ら北条一族が滅亡してから2年後のことでした。
この一連の争乱を「中先代の乱」といいます。中先代とは北条時行のことで、鎌倉北条氏を先代、足利氏を後代とした場合、その中間に位置するので中先代と呼ばれたのでした。
また、20日ばかりで時行は再び鎌倉を追われることになるので、「二十日先代の乱」ともいいます。
足利方は、女影原の戦いから鎌倉を奪われるまでのわずか数日の戦闘で、直義の妻の兄である渋川義季をはじめ、細川頼貞・岩松経家・小山秀朝ら多くの家臣を失いました。
小山氏は平安以来の名家を誇る下野最大の豪族です。北畠顕家の傍で調子にのっている一族の結城宗広などは、小山から見れば分家の分家に過ぎないレベルで小山氏は名門です。同じく平安以来の常陸の豪族で、最も有力な足利党だった佐竹貞義もこの戦いで大打撃を受けました。
直義が成良親王や甥の義詮とともに三河の矢作宿に到着したのは8月2日。直義はここに軍をとどめ、使者を京都に送って状況を報告するとともに、成良親王を京都に還しました。
直義が三河にとどまったのには、三河が足利氏の基盤だったからです。
足利氏と三河
足利氏の本領は下野の足利荘です。13世紀の初め頃に三河の守護に任ぜられたことから、三河に多くの所領をもつようになりました。
細川・仁木・吉良・今川氏など、この地域の地名を名字とするものが足利一族に多いのは、彼らがそこに定住したからです。
三河は足利王国というべき勢力基盤になっていたのです。
京都-鎌倉を結ぶ東海道諸国で、北条氏以外の者が守護となっているのは、三河の足利氏と近江の佐々木氏だけでした。
さらに、三河は鎌倉幕府にとって重要な意味合いがありました。三河は東国と西国の境界だったのです。
どういうことかというと、鎌倉幕府が強力に支配できる領域と朝廷の支配権の強い領域との境界が、東海道では三河と尾張の間だったのです。
さらに、幕府が京都に六波羅探題を設置して以降、六波羅探題が尾張以西の西国を管轄し、幕府は三河以東を管轄する体制を整えました。
三河は東国政権たる鎌倉幕府の最前線だったのです。
足利氏は、鎌倉幕府の最前線の三河守護を任されるほど北条氏の信頼と厚遇を受けていました。
それにも関わらず、北条氏を裏切った足利尊氏は、北条残党からすれば、後醍醐天皇らの倒幕派や新田義貞よりも誅するべき対象だったといえます。
足利尊氏の東下と鎌倉奪還
当時の京都-鎌倉の急ぎの伝令は三日ほどかかったと考えられていますので、直義の敗北の報せが京都に届いたのは7月25日・26日と考えられます。
尊氏はただちに時行討伐に下向することの許可を後醍醐天皇に求めました。
しかも、単なる討伐軍としての下向だけではなく、惣追捕使と征夷大将軍の任官を要求したのです。
しかし、後醍醐天皇は尊氏の一切の要請を退けました。そればかりでなく、尊氏が要求した征夷大将軍を成良親王に与えます。ときに8月1日。成良親王が矢作宿につく前日のことでした。
翌8月2日、尊氏は後醍醐天皇の公認が得られないまま、軍勢をひきいて京都を出発しました。
これを聞いた後醍醐天皇は改めて尊氏に「征東将軍」の号をさずけます。
後醍醐天皇は、成良親王を征夷大将軍に補任すれば、役職のない尊氏は下向を諦めると考えたのでしょう。
ところが、征夷大将軍が無くても下向を断行する尊氏の行動は後醍醐天皇の想定外だったようで、「征東将軍」の名をもって追認したのでした。
このような後醍醐天皇の行動は過去にもありました。後醍醐天皇が伯耆から帰京した直後、尊氏を鎮守府将軍に任じて、征夷大将軍を置かない方針を明らかにします。
しかし、護良親王が征夷大将軍を要求すると、それに屈して、彼を征夷大将軍に任命したのでした。
後醍醐天皇は、信念の帝でありながら、対個人的な関係になると情に流されやすい部分があり、足利尊氏とよく似た性格だったのではないかと思われます。
京都を出発した尊氏は、三河矢作で直義に迎えられ、8月9日の遠江橋本の戦いを手始めとして、佐夜中山・高橋・箱根・相模川・片瀬川で時行軍を撃破しながら東進し、19日に鎌倉を奪還しました。
時行は逃走し、諏訪頼重・時継は自害します。時行が鎌倉を手中におさめていたのは、わずか20日程度にすぎませんでした。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
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