足利高氏の挙兵によって攻め滅ぼされた六波羅探題。その最後の探題は、北方が普恩寺流北条仲時、南方が北条時益でした。
普恩寺流北条仲時
極楽寺流北条重時の系統である普恩寺流北条基時(13代執権)の子で、母は不明。1306年(徳治元年)に生まれました。
業時・時兼・基時・仲時と続いた普恩寺流は、代々にわたって幕府の要職につく有力な家系でした。仲時の曽祖父の業時は連署まで昇進しています。祖父の時兼は30歳前後で死去したために四番引付頭人止まりでしたが、父基時は幕府の要職を経ずに六波羅探題北方となり、鎌倉に戻ってからは執権まで昇進しています。
1330年(元徳二年)12月27日、普恩寺仲時も、幕府の要職を経ずに25歳で探題北方として上洛します。父基時と同じ出世コースの歩み方で、もし鎌倉幕府が続いていたら、探題北方の任務を全うしたのちは仲時も鎌倉に戻り、父と同じように執権にまで出世していたのかもしれません。
また、『太平記』によれば、この人事は前任の六波羅探題常葉流北条範貞・金沢流北条貞将が「さっさと鎌倉に帰りたい!」と留任を固辞したためと述べています。
1331年頃、信濃国守護を父基時から受け継いでいます。
1331年(元徳三年・元弘元年)から始まる元弘の乱で、笠置山で捕らえられた後醍醐天皇を平等院を経て京都に護送するなど、六波羅探題としての対応に追われました。以後、護良親王・楠木正成らの追討軍に従事することになります。
1333年(元弘三年)3月の赤松則村(入道円心)の京都進入に際しては、桂川まで進出して防戦するも、同年5月7日、幕府に反旗を翻した足利尊氏の軍勢によって、仲時・時益の守る六波羅探題はあっけなく陥落。2人は後伏見・花園の二人の上皇と光厳天皇を奉じて、鎌倉を目指して敗走を始めました。
この時、仲時が夫人と子の松寿丸(のちの友時)を落ち延びさせようとしましたが、逆に連れて行ってほしいと懇願され、別れを惜しんむ様子を『太平記』は描いています。
探題として上洛する北条氏は、妻子を六波羅まで連れてきたことが分かります。単身赴任ではなかったようですね。
南方の時益にうながされた仲時は、妻子を置いて六波羅を離れます。永遠の別れ、胸が痛くなるシーンです。
この鎌倉下向は絶望ともいえる作戦でした。なぜなら、鎌倉への道中にある近江国は佐々木氏の守護国、美濃国は土岐氏の守護国、そして三河国は足利氏の守護国です。すべて反幕府方の守護国ですから鎌倉に到達するのは不可能ということを、仲時はわかっていたのでしょう。
鎌倉に向けて逃走を開始し始めてすぐに、南方の時益は、馬上で野伏に矢を射られて落命します。
そして5月9日、近江国番場蓮華寺まで来たところで、反幕府勢力によって包囲され、最後まで行動を共にした432人と共に自害して果てました。享年28歳。最後まで仲時と運命を共にしたのは隠岐の佐々木一族を除けば、ほとんどが北条の家人たちでした。蓮華寺には川のように血が流れたと伝えられています。
普恩寺流北条友時
生年と母は未詳。北条仲時の子で幼名は松寿丸。父仲時と別れたあと、どこで何をしていたのか明らかではありません。
足利尊氏によって建武政権が倒されたのは1336年(建武三年)。南北朝時代に突入しているさなかの1339年(暦応二年)、友時と名乗った松寿丸は、伊豆国仁科城で南朝側として蜂起したようです。しかし、伊豆国目代の祐禅に与党37と共に捕らえられ、12名の手勢と共に鎌倉滝の口で処刑されました。
また、1336年(建武三年)に南朝方の新田義貞軍に大将の一人とみえる「越後松寿丸」が、仲時の子の松寿丸ではないか?と言われています。
北条時益
父は北条政村の五男政長の子時敦で、母と生年はよくわかっていませんが、父時敦は1281年(弘安四年)生まれであることから、1306年(徳治元年)生まれの探題北方の仲時とほぼ同年代と推測されています。
時益の曽祖父の政村は、連署や執権を歴任した幕府の宿老でした。政村流の中では、嫡男時村(連署)-為時-煕時(執権)-茂時(連署)に次いで、五男政長(評定衆・引付頭人)-時敦(六波羅探題)-時益の系統が主流でした。
祖父の政長は五番引付頭人止まりですが、父時敦は幕府引付衆を経て1310年(延慶三年)に探題南方となり、5年後には35歳で探題北方に転任しています。そして、探題在任のまま5年後に京で死去しました。この頃には時益も、父時敦とともに在京していたようで、その経験を買われて探題に指名されたと推測されています。
時益は、鎌倉の甘縄に邸宅をもっていました。祖父の政長の時代から継承していたようです。甘縄には、安達泰盛も邸宅をもっていたので両家はふだんから交流をもっていたのでしょう。
霜月騒動で安達氏は一度没落しましたが、安達氏没落中の時顕を庇護したのは政村流北条氏だったのです。のちに安達時顕が幕府中枢に復帰し、長崎高綱とともにその権勢は得宗家・北条氏を凌駕します。
時益の通称は越後左近大夫将監で、左近将監の任官は1329年(元徳元年)9月以前です。1330年(元徳二年)7月20日に六波羅探題南方に任じられ、8月26日に上洛しています(仲時は12月27日)。
1331年(元弘元年)8月、笠置山に籠城し敗れた後醍醐天皇を捕らえ、1332年(元弘二年)3月に隠岐へ配流します。しかし、各地で反幕勢力が蜂起し、時益は加賀・伯耆・丹波の守護を兼ねて制圧にあたりました。1333年(元弘三年)3月以降は、播磨で挙兵した赤松則村(円心)の軍と戦いますが、10以上の合戦に敗れます。同年5月7日、反旗を翻した足利高氏(尊氏)の軍によって六波羅探題は陥落します。
時益と普恩寺仲時は後伏見・花園の二人の上皇と光厳天皇を奉じて、関東への脱出をはかりました。
北朝側から南北朝時代を描いた『梅松論』によれば、時益と仲時は「いったん、帝らとともに京都を退いて関東の援軍を待つか、楠木正成を包囲する幕府軍と連絡を取って再度合戦しよう(意訳)」と相談したといいます。
ところが、時益は京都東山を超えた山科四宮河原(京都市山科区)で野伏の放った矢が首に刺さって落命します。残された仲時は、後伏見・花園両上皇と光厳天皇を奉じて、六波羅残党とともに関東を目指しますが、近江国番場蓮華寺で進退きわまり自害を遂げます。
仲時・時益と六波羅軍はこうして終焉したのでした。
参考文献
秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
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