鎌倉末期から南北朝時代にかけて、様々な立場の武士が登場します。御家人・悪党・公家武者…などなど。
その中でも、当時の価値観を真っ向から否定する「変わり種」の武士が登場します。彼らは「婆娑羅(バサラ)」と呼ばれました。
室町幕府が禁止令を出さなければならないほど「流行」したバサラとは何だったのか?見ていきましょう。
バサラな武士たち
戦国時代もバサラな武士たちが活躍しますが、バサラな武士は南北朝時代に出現します。
その中でも、高師直・土岐頼遠・佐々木道誉がよく知られていますので、彼らのバサラをご紹介しましょう。
高師直
まずは、足利家執事の高師直。
師直の家来が、恩賞にもらった所領が小さい、何とかしてほしいと師直に嘆願すると、
「何を嘆くことがあるか。その近辺の寺社本所領を勝手に切り取れ」と命じ、
罪を犯して、所領を没収されることになった武士が助けてほしいと頼んでくると、
「わしは知らん顔していよう。幕府からどんな命令がでてもかまうものか。そのまま座っておれ」と答えたといいます。
さらに、『太平記』の作者が「あさましき限り」と呆れさせたのは、
「もし王が必要ならば、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国主は、何処へでも流してしまえ」と言い放ちました。
天皇・院・幕府といった従来の権威を徹底的に否定しようとしたのでした。
土岐頼遠
次に、土岐頼遠。彼は北畠顕家との青野原の戦いで活躍した美濃の有力武士です。
土岐氏は、鎌倉時代に守護に任ぜられるような家格ではありませんでしたが、六波羅探題に奉仕し、北条氏とも婚姻関係にありました。のちに色んな意味で歴史に名を残す「明智光秀」は土岐一族です。
上洛した頼遠が笠懸に出かけた帰り道、光厳上皇の行列に遭遇しました。
ともに出かけた二階堂行春は「下馬の礼」を取りますが、頼遠は馬を下りません。
上皇に随身する者たちが「院の御幸ですぞ」と声をあげると、「院というか、犬というか、犬ならば射落としてやる」と言って、院の車を取り囲み、犬追物のように犬を射かけさせたといいます。
その上、問題が大ごとになると幕府の許可なく勝手に美濃に引き上げます。幕政を主導する直義は事件を重大視して、頼遠を呼び戻し、六条河原で斬首に処しました。
佐々木道誉
また、近江守護として室町幕府の政治に重きをなしたの佐々木道誉も、高師直や土岐頼遠と同じ精神構造を持っていました。
1340年(暦応三年・興国元年)10月、道誉とその子秀綱は鷹狩りの帰りに妙法院の前を通りかかりました。
南庭に美しく色づいた紅葉があったので、道誉が家臣にを折り取ることを命じます。
ところが、門主が折り取ることを拒否したところ、喧嘩になって家臣は打たれて追い出されます。
それを聞いた道誉は激怒して、300騎を率いて妙法院を焼き討ちにしてしまうのです。
妙法院は、比叡山延暦寺の門跡寺院で三大門跡(妙法院・三千院・青蓮院)の一つです。ですから、延暦寺は大いに怒って幕府に道誉父子を死罪に処すべしと、訴え出てきます。結局、道誉は出羽、子の秀綱は陸奥に配流されることになりました。
しかし、その際にも道誉は「常の流人とは異なる派手で美しい姿」をし、東海道の道々で酒宴をしながら配流先に向かったといわれています。
この姿は「公家の成敗を軽んじ、延暦寺の怒りを嘲弄する振舞い」とされました。
道誉にとっては、当時みなが恐れる宗教的権威でさえも、否定し嘲弄する対象たったのです。
佐々木道誉も名門武士です。源頼朝に従った近江源氏の佐々木京極家の家督を継ぐ者であり、鎌倉幕府では得宗北条高時に近侍していました。佐々木道誉の出家前の名は高氏で、「高」の字は北条高時の「高」の一字を与えられています。
そして、尊氏の倒幕の際には、盟友として活躍し、建武政権でも雑訴決断所の職員をつとめています。
このように、佐々木道誉や土岐頼遠は「正当な」武士で、赤松氏のような「悪党的な」武士とは全く異なっていました。
それにも関わらず、悪党以上に従来の権威を徹底的に否定し、傍若無人な振る舞いをするのです。それは、鎌倉幕府滅亡の際、六波羅を落ちた上皇・天皇に弓矢を向け、略奪をしかけた野伏と、大きな違いはありません。
したがって、体制に抵抗するといった「悪党の精神」は、南北朝時代の武士の精神として、受け継がれていったと言えます。
このような精神を「バサラ(婆佐羅・婆沙羅)」といいます。「バサラ」の語源は、サンスクリット語のバアジャラから派生した言葉で、本来は魔や鬼を打ち砕く強い力を意味していました。
それが次第に変化し、「派手な」「無遠慮な」「贅沢な」「遠慮会釈のない」「放埓な」という意味になり使われるようになったのでした。
「バサラ」は、この時代におけるいわば流行語です。そして、師直や頼遠・道誉は、このバサラを体現した大名だったのです。
バサラ禁止令
「バサラは、一部の武士で広まった流行か?」といえばそうではなく、社会的な流行となっていました。
バサラの風体
「二条河原落書」には、そのころ流行したバサラ風の姿について、「鉛作ノオホ大刀、太刀ヨリオホキニコシラヘテ、前サカリニソ指ホラス、ハサラ扇ノ五骨」と記しています。
「鉛でつくった大きな刀を前下がりに目立つように腰に差し、人目をひく、はでな絵柄の扇をみせびらかし」ながら武士たちは、京都市中を闊歩していました。
このようなバサラの流行に対して、幕府も対応せざるを得なくなります。
建武式目の第一条は「倹約を行わるべき事」であり、「近日婆佐羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)、精好銀剣(せいごうぎんけん)、風流服飾、目を驚かさないものはない。すこぶる物狂いというべきである」と述べられています。
「綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)」というのは、錦などの贅沢な布を使った衣服を示し、「精好銀剣(せいごうぎんけん)」とは、高価な銀でこしらえた剣、「風流服飾」とは奇異で派手なデザインの服や装身具のことです。
これらを身につけるのが、バサラ風で、その姿を「過差」、つまり分不相応なぜいたくであるとし、「物狂い」つまり狂気の沙汰であるとして、厳しく取り締まるというのです。
室町幕府の基本法令ともいえる建武式目の第一条は「倹約」を掲げていますが、それはバサラを取り締まることを示していたのです。
当時、バサラの流行がすさまじかったということを物語っていると言えるでしょう。
その後も幕府は、バサラ風の姿を禁止する法令をいくつか発布しています。
時代は少し下がりますが、1367年(貞治六年・正平二十二年)12月に、「精好大口、織物小袖」の着用を禁じ、金で装飾した鞍の使用を禁止しました。
「精好大口」とは、精好織りという精密で美しい特別な絹織物で仕立てた、袖の広い大口袴のことです。
現在では、能装束にその名残があると言われています。
「二条河原落書」にも、「下衆上臈ノキハモナク、大口ニキル美精好」とあり、貴賤に関わらない流行のファッションだったようです。
1369年(応安二年・正平二十四年)にも、ほぼ同じ内容の法が発布されていますが、そこでは「精好大口」とともに、「色皮の下沓(しとうず)」が禁じられています。下沓は、沓の下に用いる履物で、現在の靴下にあたります。この時期の人々は下沓でファッションセンスを競ったのです。
ファッションリーダーの中間な者たち
バサラ禁止令では、中間(ちゅうげん)以下の輩が金銀や梅花皮等の腰刀を用いることや、直垂の絹裏や絹の腰当てをすることも禁じています。
中間とは、有力武士に仕えて雑務を行った小者と、侍との中間にあたる者たちのことです。
日常的には武士の周辺に仕えて屋敷を守り、合戦では、歩兵集団として戦場を走り回って戦いました。もとは悪党や野伏で、傭兵になって侍に仕えたといわれています。
幕府が、特に中間をバサラ禁止令の対象とし、派手でぜいたくな姿をすることを禁止していることから、この中間がバサラ風の流行の中心で、バサラ者として当時のファッションリーダーだったと考えられています。
しかし、このような度々の禁止令にも関わらず、この時代の人々はバサラを支持していたようです。
バサラは、同じ戦争時代である戦国時代から織豊期にも流行し、「カブキ(傾き・歌舞伎)」という新しい文化の創造につながっていきます。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
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