鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、武家社会は大きく変化します。鎌倉幕府が滅亡し、建武政権や室町幕府が誕生したのですから、変化があるのは当然と言えば当然です。
戦いの変化
戦闘を家の芸とする武家社会の変化は、戦闘そのものにも大きな影響を与えました。
伝統的な関東御家人の間には、敵将の乗馬を射てはならないとか、互いに名乗りをあげる一騎打ちを重視するなど、前代以来の戦闘作法を遵守する傾向にありました。
楠木正成などに代表される西国の新興武士が多く合戦に参加するようになると、こうした基本的な作法は平気で破られるようになります。そのため、名を惜しみ命を惜しまなかった鎌倉武士の気風も徐々に変化していきますが、合戦の方々は依然として、弓と太刀で武装した騎馬武者であることに変わりはありません。
一本一本の矢に自分の名を刻んだりする習慣や降伏することを潔しとしない気風は残されていました。
しかし、南北朝時代には「降参半分法」という、所領半分を没収することで降参を認めるという、降参のルールが確立されます。
所領半分を失う覚悟さえあれば、合戦に不利になったら降伏すればよいという考えが武家社会に広がっていきました。
戦いの手順
さて、武士が命を懸けて合戦に参加するのは、所領の保全(本領安堵)と、恩賞による新たな所領の増加(新恩給与)を期待したからです。
そして、実際の合戦では、軍勢の召集から恩賞給与までの各段階は一連の文書のやりとりによって成り立っていました。
- 軍勢催促状(将軍→各国守護→各国武士)
- 着到状(武士→守護→武士)と着到帳(守護側の記録)
- 軍忠状(武士→守護→武士)と分捕実検帳・疵実検帳(守護側の記録)
- 感状(将軍→武士、足利一門守護→武士)
- 下文(将軍→武士)
このような手順で、合戦に参加する武士と、大将である守護そして将軍との間で文書がやり取りされていました。それぞれ、順番に見ていきましょう。
1.軍勢催促状
各国の軍団長である守護が大将として武士を率いて戦いますが、合戦の前にまず武士には当時の召集令状にあたる「軍勢催促状」が出されました。
合戦があらかじめ予想されるときは、大規模な動員令を出して召集します。
幕府による召集は、幕府がまず朝廷に奏請して朝敵追討の院宣や綸旨を出してもらい、さらに尊氏か直義の名前で軍勢催促状が守護や足利一門の国大将に発給されます。
これを受けた守護・国大将は、この命令書の写しを添えて、管轄国内の御家人に軍勢催促状を発給して武士を召集します。そして、武士は大将である守護のもとに集結し戦闘予定地に向かうのです。
以上が、幕府による軍勢催促の基本ですが、例外もあります。たとえば、鎌倉幕府や六波羅探題から直接催促を受けていたような有力豪族などは、室町幕府創設後も守護を経由せずに尊氏から直接催促状を受領していたようです。
なお、軍勢催促状は、内乱当初は、尊氏か直義の2人が発給していましたが、1337年(建武四年)になると尊氏の催促状は姿を消し、直義の催促状だけになります。
また、守護同士でやりとりされた軍勢催促状が存在しないことから、軍勢催促は常に幕府を通じて行われていたと考えられています。
援軍の必要がある場合は、隣国の守護に対して幕府によって援軍が要請されるのが建前でした。しかし、現実には逐一幕府に報告してその命令を待つ時間的余裕のない場合は、各地域に派遣されている足利一門の国大将が一国を超える広範囲の動員命令を下し、上級大将として地域の緊急事態に対処していました。
建武三年に尊氏が九州に落ちる際の室津軍議によって、足利一門の対象が派遣された中国地方では、一門の守護および国大将の軍勢催促状が尊氏兄弟のそれと並んで発給されています。
長門の厚東氏、周防の大内氏などこの地方の非足利一門の外様守護は、軍事権限を制限されていて軍勢催促状の発給はできませんでした。しかし、観応の擾乱以降は、現地に影響力のある者にはすべての軍事権限を与えたので、外様守護も軍勢催促権をもつことになります。
2.着到状と着到帳
指定の場所に一族郎党を率いて到着した武士は、出陣の証明書として参加した一族郎党の名前を書いた着到状を提出し、大将は現在の出勤簿にあたる着到帳にその内容を転記して、着到状には確認の花押(サイン)を記して本人に返却します。
3.軍忠状
いよいよ合戦になりますが、鎌倉末期から室町時代にかけての戦いは、騎馬武者主体の一騎打ちは徐々に崩れ始め、大勢の武士が集団で激突する戦闘が一般化してきました。これは徒士武者(歩兵)の登場によって、武士の数そのものが飛躍的に増加し、また遠国からの軍勢も召集されるようになったからです。
また、一族が敵味方に分れて交戦することも多くなり、その識別のためにこの時期に家紋の種類が激増したといわれています。
このような合戦では、鎌倉時代のように、討ち取った敵の首を証拠の鎧直垂(よろいひたたれ)や太刀などと一緒に大将のもとに持参して実検してもらうことが困難になります。
そこで、1338年(暦応元年)の奈良般若坂の戦いでは、「分捕切棄法(ぶんどりきりすてほう)」という臨時法が足利方の高師直によって発令されました。
これは、倒した敵は打ち捨てにし、事実を証人に確認してもらうとすぐに戦闘を続行し、いちいち敵の首をとる必要はないというもので、戦いの状況によってしばしば採用されました。
般若坂の戦いでは、数の上で勝る北畠顕家軍が大軍だったことから、幕府軍が臨時にこの法を採用したとされています。
武士にとって最も重要なことは戦功を認めてもらうことですが、蒙古襲来の頃までは、大将に口頭で申告し、そばに控える執筆人がそれを文書にして鎌倉の侍所に報告し、将軍の耳に達するという方法をとっていました。
しかし、南北朝時代になると軍忠状とよばれる自分の戦功(軍忠)を申告した文書によってその認定が行われたのです。
軍忠状には所属した指揮官名、合戦の場所と日時、自分の戦闘を確認した証人と戦功の具体的内容を記して申請しました。敵の首をとる分捕りや生け捕りのほか、敵陣に最初に突入する先駆け・討死・手負いも重要な戦功でした。
戦闘に参加した武士の最大の目的は恩賞ですので、恩賞給与の基本資料となる軍忠状にはアピールのためにそれ以外の様々なことも記されます。
たとえば、乗馬に矢が当たった、敵の旗を分捕ったなど、些細に思われることも漏らさず記載し、しかも何度も申請するのが当たり前でした。損害が無かったとしても、戦費は自費だったことから武士も必死だったわけです。
軍忠状を提出すると、実検帳にその内容が記され、着到状の場合と同じように確認の証判を与えられ本人に返却されました。これは、戦闘終了後の、大将と武士双方の証拠補完のために採られた手続きです。
武士は、恩賞の沙汰が遅ければ、大将の証判のある軍忠状を証拠に再申請を行うことができました。
大将の側にとっても、虚戦(そらいくさ)による恩賞請求を、軍忠状と実検帳とを付き合わせることで防ぐことができました。時間が経つにつれて、大将も配下の武士の戦功についての記憶が薄らいでいきますので、便利なシステムだったのです。
そして、この手続きがあれば、いつでも戦功の確認ができますので、合戦が連続的に起こって、迅速な恩賞給与が困難になった場合でも、後に正確に論功行賞を行うことができたのです。
なお、軍忠状には、1回の合戦の戦功を即刻上申する逐次型と、長期間にわたって数回の戦闘の戦功を一括して上申する一括申請型(長文日記体)の2種類がありました。後者は、1回の戦功で恩賞がもらえなかったりした場合に、前者をいくつか書き足して複合させ、作成したものです。
戦闘終了後に時間的に余裕がある場合は、大将や軍奉行の面前で敵の首実検や、あるいは負傷の程度や箇所が軍忠状と相違ないかの実検を行います。
また、合戦では敵味方の識別をするための印(家紋など)をつけた大きなハンカチくらいの布ぎれが用意されました。これを武士たちは鎧の大袖と兜の後ろ側につけ、それぞれに袖験・笠験とよんで使用していましたが、戦いが不利になるとわざと外したり、また自然に千切れてしまうことも多くありました。
このため、誤って味方を討ち取ってしまう同士討ちも少なからず起こりました。その時は罰として右手の指を切る習わしがあったそうです。右指を切る理由は、左指を切ると弓が握れなくなるからです。武士と言えば「刀」ですが、鎌倉時代や南北朝時代の武士と言えば「弓と馬」です。
4.感状
軍忠状を受理すると、大将はその武士の戦功を推挙状にして幕府侍所に報告します。そして、審議の結果、尊氏の御感御教書(ごかんのみぎょうしょ)とよばれる感状が授与されます。
そのには、恩賞を下すという約束の言葉が記されていました。
本来、感状の発給は将軍の専権事項でしたが、南北朝初期は尊氏・直義兄弟とともに足利一門の諸大将も発給しました。しかし、一般の外様守護には発給権はなく、この点からも内乱初期の幕府体制は足利一門が中核になっていたことがわかります。
やがて、南朝軍が弱体化して畿内の戦局が安定してくると、一般の守護などの大将が感状を出すことは原則禁止されるようになります。九州平定に大きな貢献をした九州探題で足利一門の今川了俊でさえ、感状を発給したことを幕府にとがめられています。
5.下文
感状を受領すると、適当な闕所(没収地)があったときにその土地が給付されますが、それは恩賞地の権利証である下文によって与えられました。
むすび
このような手続きを経て、武士の戦闘参加の目的が達成されますが、たとえ敵将を討ち取り、一族郎党を数多く失っても、自身が所属する軍が敗れてしまえば、感状も下文も空手形に終わります。武士たちは、現代を生きる私たちには想像も出来ない必死さで戦ったことでしょう。
参考文献
小川信監修『南北朝史100話』立風書房
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